て見たりしながら、小走りに――道端の茶店を通り抜けようとした途端
「待てっ」
 暗い油障子の半分開いている中から、一人の侍が出て来た。出雲守は
(しまった)
 と、感じた。そして、たたっと退った。それを追い込むように、侍が
「何者だ」
 と、手を延して、笠を掴もうとした。障子に鈍い灯がさして、提灯と、もう一人の侍とが出て来た。そして
「判ったか?」
「灯を貸してくれ――」
 と、振向いてから、出雲守に
「何れへ参る」
 出雲守は、笠へ手をかけて、顔を見ようとするのを、一足退って、避けると同時に、足構えをした。そして、侍が、提灯の方へ、手を出した隙を
「やっ」
 右脚で、払った大外刈。全力的に突いた両手の力。
「くそっ」
 よろめきながら、手を延して、出雲守の胸を掴もうとする相手の体の崩れに、どっと、体当りをくれると、己も、よろめきながら――だが、提灯を持った侍が
「待てっ」
 と、いう叫びを、後に、走り出していた。
「待たぬかっ」
 足音が、すぐ迫っていた。出雲守は、脇差の鯉口を切った。そして、迫って来る足音で、その距離を計りながら
(ここを、無事に、逃げられますよう)
 と、心の中で、何かに、祈った。そして、時々、ちらっと、振返りながら、幾度か、己の呼吸と、距離とを計ってから
(ここだ)
 さっと、左膝を雪の中へ曲げるが早いか、全身の力を右手にこめて、ぴゅーっと、振った片手|薙《なぎ》――
「あっ」
 と、低く、短い叫びと同時に、追手は踏み止まって、ぐっと、腹を引いて、刀尖を避けたが、出雲守の掌へは、肉を斬った手答えを感じたし、対手は、刀を抜いたまま、よろめいた。そして
「己っ、手向いを」
 と、叫んだ。出雲守は、それを聞きながら、対手が、何うしたか?――倒れたか? 追って来るか? 眼の底に、その、よろめく姿を残したまま、立上ると、走り出していた。前かがみに、笠を押えて、右手に刀を持って、荷物を捨ててしまって――。
 だが、突倒された男が、出雲守と同じ速度で起き上って、追って来た。そして、出雲守の抜刀したのを見ると、走りながら、刀を抜いて
「卑怯者っ」
 と、叫んだ。神官である井上出雲守は、若侍を対手に、勝てようとは思わなかった。走った。走った。神に祈りながら走った。だが、足音は、だんだん近づいて来た。

 出雲守は、追われている鹿の如くに走った。追っつかれたら、それまでだと思った。もう、神に祈るだけの余裕も無かった。
 眉をしかめ、口を開いて、荒い呼吸をしながら、絶望的な気持で、走った。
(同志は、切腹したが、自分は、こうまでして逃げて、逃げきれずに、泥まみれになって死ぬのか)
 と、思うと、自分の身体を、泥の中へ抛げつけたいように感じた。
(神官は、矢張り神官だ。武士とちがって、いざとなると、おくれた振舞をする)
 と、思われるのが、口惜しかった。追って来る侍に
(わしは、卑怯で、逃げるのではないぞ)
 と、怒鳴りたかった。そして、その侍が、自分の気持さえわかってくれたなら、潔く、首を渡してやってもいい、と思った。だが、そんなことを思いながらも、心の底では
(死んだって、福岡まで)
 と、絶叫していた。
「おーい」
 少し、後方から、腹に疵を受けた一人の方が、呼んでいた。だが、出雲を迫って来る侍は、答えなかった。ただ、足音だけが、だんだん、近く迫って来ていた。
 夜の雪空は、暗い低さで、積った雪あかりに、やっと、道は見えていたが、急な曲り角になると、田圃の中へ、飛び込みそうになっては、危く身を躱して、走らなくてはならなかった。出雲守は、脚が動かなくなるか、呼吸が切れるか、何っちかだ、と思った。そして、走りながら、眼を閉じた時、その急な曲り角へ、又、走りかかっていた。そして、眼を開いた時
(しまった)
 と、頭の中を、一掴みにされたように、感じた。走って来た勢いで、もう、踏み止まれなかった。そして、踏み止まれないと同時に、もし踏み止まったなら、追手の手にかかるのが、明らかであった。出雲守は
(しまった)
 と、頭の中で、絶望的に叫んだが、その瞬間、身体も、脚も、本能的に、全力を挙げて、前へ飛んでいた。それは、追手から逃げようとする一念が、咄嗟《とっさ》の内に、そうさせたのであった。
 がばっ、という音と一緒に、出雲守は、泥田の中へ、前のめりに、両手を突き出して、飛び込んでいた。両脚が、膝のところまで、泥の中へめり込んだ。両手は、前へ延びたまま――泥水を、跳ね上げて、脚と同じように泥の中へ突っ込んだ。顔も、胸も――そして、脚の底は、泥の中へ吸いついて
(逃げなければ――)
 と、思っても、動かなかった。出雲守が、落込むと同時に
「あっ」
 と、いう叫び声がした。追手は、泥田の間際で、踏み止まろうとしたが、はずみで、片脚を、田
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