て、人々が、同じように、溜息をした時
「うむ」
 と、低く、声をかけると、右手を押した。その瞬間、ぐっと、口が引締って、眉が、歪んだ。額に、冷汗らしく、きらきらと、浮き出してきた。
 一郎右衛門は、眉に、眼に、口に力を入れながら、刃が、一寸余り入ると、張切っている皮を、左から右へ――拳が、目に立って震えてきた。
(失敗《しくじ》らぬよう)
 と、人々は、念じた。そして、自分が、切腹しているのと同じように、額に、腋の下に、冷汗を出して、膝も、身体も、顫わせながら、蒼白になっていた。
 一郎右衛門の顔は、灰色に変じた。眼の周囲に、黒い曇りが現れて来た。それは、苦痛と、それから、死の前兆であった。一郎右衛門は、二寸余り切ると、眼を開いて、肩で、大きい呼吸をした。

「なかなか――」
 と、一郎右衛門は、歪んだ微笑した。だが、誰もそれに答えて、笑いもしなかったし、物もいわなかった。一人の若侍は、眼球を剥《む》き出して、乗り出すようにしながら、手許を見つめていた。一人は、脣を噛んでいたし、ある人は、俯向いて、時々、ちらちらとしか見なかった。
 切口の上と下とに、微かな血が滲み出して来て、細く、肌を伝いかけた。一郎右衛門は、眼を閉じて、暫く、じっとしていたが
「えいっ」
 と、叫んで――人々が、その叫び声に、ぐっと、胃の腑を、突かれた時、力任せに、右手へ、掻切ってしまった。と同時に、刀を突き立てたまま右手《めて》をがくがく震わせ、左手を、蒲団の上へ突いて、俯向きながら、髪の毛を、びりびり震わしていた。人々は、固唾を飲んだ。
 切口は、五分余りも、口を開けて、血に染んだ白い脂肪が、厚い層を現していた。そして、その分厚な脂肪の下から、灰色の大腸が、ちらっと、見えていたが、一郎右衛門が、苦痛に、呼吸を大きくし、身体中に、力を入れると同時に、それが、ぐっと食《は》み出して来た。そして、呼吸をするたびに、少しずつ、押し出されて来て、一管が、切口から食み出すと同時に、すぐ、そのつづきが、だらだらと出て、切口から垂れ下った。
 一郎右衛門は、俯向いて、手をついたまま、肩で呼吸をしているだけであった。
「山田殿っ」
 一人が、叫んだ。返事をしなかった。
「介錯《かいしゃく》を――」
 一郎右衛門は、首を振った。そして、ついていた手を、膝の上へ上げて、右手の刀を、抜いた。そして、顔を上げようとしたが、暫く、じっと――それは、残りの力を集めて、頸を掻切るためでもあったし、苦痛を耐える最後の努力でもあった。
 そして、左手で、静かに、切口をいじって、食み出している大腸へ触れると、それを切口へ押込もうとした。いつの間にか、分量の多くない血ではあったが、下腹一面が、薄く、血染めになって、帯の辺まで、滲み出していた。
 顔を上げた一郎右衛門の表情は死鬼のようであった。眉も、眼も、常とは変ってしまっていたし、その顔色は、暗灰色に変じていた。
 一郎右衛門は、右手の鎧通の尖《さき》を、震える手で、膝へ当てて、拭いた。そして、左手を軽く持ち添えると、がくがく震わしながら、右の頸部へ、刀尖を当てた。そうして、大動脈の筋を探していたが、探し当てたらしく、左手で、刀尖を狂わぬよう押しつけて、すぐ、その手を柄頭へ当てて、両手に力を込めた。
「お心、静かに」
 と、誰かが、叫んだ。低いが、唱号を称えている声がした。すすり泣きが、聞え出した。微かな声で
「それでは――」
 と、云った一郎右衛門は、眼を開いたが、もう、その力さえ十分でなかったし、瞳は開きかけて空虚であったし、すぐ、眼は閉じてしまった。
「うむっ」
 呻きとも、叫びともわからぬ声がして、脣を、きつく噛んだ刹那、鎧通が、頸動脈を突き通したらしく、濃い、太い、勢のいい鮮血が、二尺余りも、横ざまに飛んだ。そして、畳の上へ、叩きつけたように散った。頸から、胸へ、血の流れ落ちるのが、人々に見えた刹那、一郎右衛門の身体は、頭から、よろめき出して、崩れるように、右手の前へ、突伏してしまった。

 雪空は低く、暗かったが、地上には、雪が薄くつもっていて、人影は、ほのかに判っていた。
 井上出雲守は、小脇差を差し、笠と、蓑《みの》とに身体をつつんで、人目につかぬ脇道から、城下を離れるため、急いでいた。
 春の雪ではあったが、足は、凍えて、いつの間にか、指の感覚が無くなっていたし、両掛けにしている小さい荷物が、旅慣れない肩には、もう、重くなって来ていた。だが
(福岡へ――)
 と、思って、冷える手を懐へ入れたり、擦り合せたりして、街道筋へ出る、曲り角まで来た。そして、街道筋の模様を、暫くうかがってから、林の中を、左の方へ斜めに横切って、街道へ出た。
(同志のために、斉彬公のために、お家のために)
 出雲は、時々、後方を振向いたり、前をすかし
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