察しられたが、それが、何か判らぬので、不安を感じながら、廊下へ出た。七瀬が、小声で、口早に
「お由羅派の――何か――」
 と、聞くと、矢五太夫は、筆をとめて
「正義派が、総崩れになりそうじゃ」
 と、七瀬を、睨みつけるようにして、いって、すぐ、筆を走らせた。
「はっ」
 七瀬は、そう、溜息とも、言葉とも、つかないものを、吐き出して、すぐ、二人の後方から、廊下を小走りに、走って行った。
(夫の斬死も、無駄になったし――その上に、大殿様の、お指図らしいが――)
 と、思うと、頭の中も、胸の中も、蒼黒い毒煙が、這い廻っているように、苦しくなってきた。内玄関へ出ると、万作が
「何事でござりますかな」
 と、草履を履きながら、七瀬を見上げた。
「さあ」
 と、いったが、七瀬は、逆上《のぼ》せてくるくらいに、何かしら、腹が立ってきた。神にも、仏にも、思いっきり、その無情をなじりたいような気持であった。万作は、すぐ、走って行った。七瀬は、自分の草履を、叩きつけるように、土間へ、投げ下ろした。

(お国許で、こんな騒ぎが、起っている以上、大阪にも、何か、起っているにちがいない――綱手は、何うしているかしら)
 七瀬は、往来の人々が、怪しんで、振向くくらいに、急ぎ足で、歩きながら
(調所様は、よい方であったが、今度の蔵屋敷の方は、何んな人かしら――)
 敵党の人だとは知っていたが、調所には、好意がもてた。向うから、馬蹄の音が、聞えて来たので、軒下の方へ、避けながら、馬上の人を眺めると
(見たことのある――)
 と、感じた。そして、じっと、凝視めていると、顔が、明瞭としてきた。
(ああっ、四ツ本喜十郎)
 七瀬は、一寸、立止まって、馬上の四ツ本を睨みつけた。そして、四ツ本の、すぐ、後方から、同じような栗毛の馬に乗って来る男の顔を見ると
(おお百城様)
 二人は、馬を、急がせて、通りすぎようとして、七瀬の眼と合った。四ツ本は、じろっと、眺めたままであった。
(百城様が、四ツ本などと、一緒に――何んのために――)
 頼もしい、味方であると信じていた百城が、四ツ本と、一緒なので、七瀬は、不愉快さを感じながら
(何をしに、こんなところに――)
 と、思った時、百城が
「七瀬殿」
 馬上から叫んで
「四ツ本氏、手前、すぐ、つづきますゆえ」
 と、声をかけて、馬上から
「ちと、お話が――」
 七瀬は
「後程、ゆっくりと、ちと、取急ぐ御用を達しに参りますゆえ――」
 と、歩き出しながら、振向いて、去ろうとした。百城は、手荒く、手綱を引いて、馬の首を、七瀬の方へ向けつつ
「いや――一言」
 馬の首を、立直して、小走りに行く七瀬の後方から
「綱手殿が――」
 七瀬は、振向いて
「ええ?」
 百城は、じっと、七瀬の眼を見つめて、暫く、黙っていたが
「綱手殿のことを、御存じでは?」
「綱手が?」
 四ツ本が、遠くで、馬をとめていたが
「牧っ」
 と、叫んだ。
「只今」
(牧?)
 七瀬は、牧と呼ばれて、何うして、百城が返事をしたのか、判らなかった。
(牧?――もしかしたなら、仲太郎の倅の)
 と、思って、不安そうに、百城の眼から、何かを読もうと、見つめていると
「綱手は――」
 七瀬は、百城の、いい渋っているのに、腹が立って来た。
「急ぎますゆえ、これにて――」
 と、お叩頭をして
「川上矢五太夫様の許におりますから」
 と、いいすてて歩きかけると
「綱手殿は、お果てになりましたぞ――」
 百城の言葉は、かすれていた。七瀬が、顔色を変えて、振向くと、百城が、赤い顔をして
「許して下され」
 と、低く叫んで、馬の首へ、俯向きながら、手綱を引き、足で蹴って、急いで、馬を返しかけた。
「綱手が」
 と、七瀬は叫んだ。百城は、俯向いて
「拙者の手にかかって――」
 と、いいながら、向き直った馬に角《かく》を入れた。
「綱手は――死にましたか?――百城様」
 七瀬は、こう叫んで、二三歩、馬の方へ馳せ寄ったが、馬は、走り出していた。七瀬は、暫く、じっと立っていたが、すぐ、国分の家の方へ走り出した。蒼白な顔になってしまっていた。

 川上、川北の二人の、硬直な裁許掛が、伊集院平の命令を聞かなかったので、同じ掛の三原喜之助の手から、処分の伝達が、斉彬派の人々の許へなされた。
 お由羅派の人々は、そうした処分が行われると知って、喜んだり、眉をひそめたりしていたが、それでも、万一のことを考えて、邸の周囲を見廻ったり、隣りの斉彬派の人の行動をうかがったりした。そして、じっと、静かに、耳を立て、眼を見張っていた。
 だが、斉彬派の人々は、そうしておれなかった。馬が走ったし、提灯が飛んだし、若侍が、若党が、小者が――女まで、険しい眼をし、呼吸をはずませて、走った。
 近しい朋輩、親族の人々は、
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