牧殿は三十七八じゃ」
 綱手が、小太郎の後方から入って来た。そして、いっぱいに涙をためた眼で、八郎太を見ながら、両手をついた。
「お父様」
 八郎太は、綱手に、見向きもしないで
「七瀬、予《かね》て、申しつけておいた通り、勤め方の後始末を取急いで片付け、すぐ、国へ戻れ。許しのあるまで、二度と、この敷居を跨ぐな」
「はい」
「お父様」
 綱手は、泣声になった
「お母様に――お母様に――」
「お前の知ったことでない、あちらへ行っておいで」
「いいえ、妾《わたし》は――」
「それから、手廻りの品々は、船便で届けてやる。早々に退散して、人目にかからぬように致せ」
 罪のない妻を、こうして冷酷に扱うということが、武士の意地だと、八郎太には思えた。この恩愛の別離の悲嘆を、こらえることが、武士らしい態度だと、信じていた。
 又、妻をこう処分して、武士らしい節義を見せるほか、この泰平の折に、忠義らしい士の態度を示すことは、外になかった。こうすることだけが、唯一の忠義らしいことであった。
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ざんば岬を
後にみて
袖をつらねて諸人の
泣いて別るる旅衣
[#ここで字下げ終わり]
 益満が、大きい声で、唄いながら、庭の生垣のところから、覗き込んだ。
「お帰りなさい」
 七瀬に、挨拶して、生垣を、押し分けて入って来た。そして、綱手の顔を見ると
「何を叱られた?」
 綱手は、袖の中へ、顔を入れた。
「若君、お亡くなりになったと申しますが、小父上――前々よりの御三人の御病症と申し、ただ事ではござりますまい」
「或いは――」
「七瀬殿を幸い、そのまま、奥の機密を、探っては?」
「七瀬は――離別じゃ」
 益満は、腕組をして、脣を尖らせた。
「離別」
「止むを得まい。仙波の家の面目として」
「面目が立てば?」
「立てば?」
「某《それがし》に、今夜一晩、この話を、おあずけ下さらんか。小太郎と談合の上にて、聊《いささ》か考えていることがござる」
「何ういう?」
「それは――のう、小太。云わぬが、花で。小父上、若い者にお任せ下されませぬか」
 八郎太は、益満の才と、腕とを知っていた。
 齢を超越して、尊敬している益満であった。

「益満様」
 七瀬が、一膝すすんで
「只今も、叱られましたところで――怪力乱神を語らずと申しますが、不思議な事が、御病室でござりました」
 小太郎も、益満も、七瀬の顔を、じっと眺めた。
「五臓の疲れじゃ。埓《らち》もない」
 八郎太は呟いた。
「何うした事が?」
「幻のような人影が、和子様へ飛びかかろうとして、それが現れると、和子様はお泣き立てになりましたが、それが、どうも、牧様に――ただ齢が、五つ、六つもふけて見えましたが――」
 益満は、うなずいた。小太郎は、益満の眼を凝視していた。その小太郎の眼へ、益満は
(そうだろうがな)
 と、語った。
「聞き及びますと――」
 益満は、膝の上に両手を張って、肩を怒らせながら、八郎太から七瀬を見廻して
「当家秘伝の調伏法にて、人命を縮める節は、その行者、修法者は一人につき、二年ずつ己の命をちぢめると、聞いております。その幻が、牧仲太郎殿に似て、四十ぐらいとあれば――牧殿は――」
 益満が指を繰った。八郎太が
「牧殿は、七八であろう」
 益満は、腕を組んで俯向いていたが
「牧殿は、お由羅風情の女に、動かされる仁ではござるまい――小父上」
「うむ」
「さすれば――」
 そういって、益満は、黙ってしまった。一座の人も俯向いたり、膝を見たりして、黙っていた。
「斉興公が」
 小太郎が、当主の名を口へ出すと共に、八郎太が
「小太っ」
 と、睨みつけて、叱った。益満は、うなずいた。
「濫《みだ》りに、口にすべき御名ではない。慎め」
「はい」
「次に、調所笑左衛門――これが、右の腕でござろう。そして、牧は、調笑に惚れ込んで、己の倅を大阪の邸にあずけておるが、国許は知らず、江戸の重役、その他、重な人々は、恐らく、斉彬公を喜んではおりますまい――のう、小父上」
「そう」
「悉く、斉彬公のなさる事へ反対らしい。第一に、軽輩を御引立てになるのが、気に入らぬ。この間も、御目通りをして、『三兵答古知幾《さんぺいとうこちき》』を拝借して退って来ると、御座敷番の貴島太郎兵衛が、何を持っているか――突きつけてやると、又、重豪公の二の舞を、何故、貴公達諫めんかと、こうじゃ」
「斉彬公を外国方にしようとする幕府の方針を、彼奴らは、木曾川治水で、金を費わされたのと同じに見ている、調所さえ、そうじゃものなあ」
 小太郎は、顔を、心もち赤くして、静かにいった。

「とうとうとうと、御陣原へ出まして、小手をかざして眺めますと、いやあ――押しも寄せたり、寄せも、押したり、よせと云っても、押してくる武蔵鐙に、白手綱、その勢
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