するのでない」
 八郎太は、これだけいうと、又庭の方へじっと眼をやった。小太郎には、父の苦しさ、悲しさが、十分にわかっていた。そして、母の苦しさ、悲しさもわかっていた。
(益満のいった手段を――)
 と、思った時、玄関で
「お母様」
 と、姉娘綱手の声――すぐ、つづいて妹深雪の、笑い声がした。八郎太は、眉一つ動かさなかった。小太郎は、すぐ起るにちがいのない、夫婦、母子の生別《いきわかれ》の場面を想像して、心臓を、しめつけられるように痛ませた。
[#ここから3字下げ]
小手を、かざして
御陣原見れば
武蔵|鐙《あぶみ》に、白手綱
鳥毛の御槍に、黒|纏《まとい》
指物、素槍で、春霞
[#ここで字下げ終わり]
 益満の家から、益満の声で、益満の三味線で、朗らかな唄が聞えて来た。
[#ここから3字下げ]
お馬揃えに、花吹雪
桜にとめたか、繋ぎ馬
別れまいとの、印かや
ええ、それ
流れ螺《がい》には、押太鼓
陣鐘たたいて、鬨《とき》の声
さっても、殿御の武者振は
黄金の鍬形、白銀小実《しろこざね》――
[#ここで字下げ終わり]
 八郎太も、小太郎も、黙って、その唄を聞いていた。何をいっていいか、何を考えていいか、わからなかった。罪もなく、尽すべきことを尽して、そして、離別されに戻って来た妻の顔、母の顔が、今すぐに見えるのかと思うと、いらいらした怒りに似たものと、取りとめのない悲しいものとが、胸いっぱいになってきた。
 つつましい足音が聞えてきた。襖が開いた。小太郎は、母だと思ったが、顔を見るのさえ辛かった。振向いて、眼を外《そ》らしながら
「お帰りなされませ」
 と、いった。
「只今――」
 そういった七瀬の声は、小太郎が考えていたよりも、晴々としていた。小太郎は、うれしかった。

(医者が、侍臣が十分に、手を尽しても、助からぬのだから、何も、妻の手落ちばかりというのではないが――重役の方々のお眼鏡に叶《かな》って、御乳母役に取立てられたのに、その若君がおなくなり遊ばされた以上は、のめのめ夫婦揃って、勤めに上ることもできん。妻の不行届を御重役に詫び、わしの心事を明らかにするためには、とにかく当分の離縁の外に方法がない。そのうちに、誰かが、仲へ入ってくれるであろうが――)
 八郎太は、その面目上から、立場から、妻の責任を、こうして負うより外になかった。振返って七瀬を見ると、七瀬は眼を赤くして、げっそりとやつれていた。眼の色も、干《かわ》いて、悪くなっていた。
 八郎太は、慰めてやりたかった。可哀そうだ、とも思った。こいつの性質として、十分に努力はしただろうと思った。だが、もし、寛之助様の病がよくなったのだとしたら、自分は、どんなに肩身が広く、出世ができるか? と思うと、何んだか、七瀬の背負っている運が、曲っているようで、不快でもあった。
 七瀬は、部屋の中へ入って、後ろ手に襖を閉めた。そして
「お詫びの申し上げようもござりません」
 両手をついて、頭を下げた。
「仕方がない」
 八郎太は、低く、短く、こういったきりであった。
「ただ一つ、不思議な事がござりまして、それを申し上げたく、取急いで、戻って参りました」
 小太郎は、ほっとした。何か、母が、証拠でも握ってくれたのであろう。それならば、それを手柄にして、円満に行けば――と、母の顔を見た。
「どういう?」
「一昨日の夜のことでございます。夢でもなく、うつつでもなく、凄い幻を見ましたが、これが、若君を脅かすらしく、幻が出ますと、急に――」
 八郎太の眼が、険しく、七瀬へ光った。
「たわけっ」
 八郎太は、睨みつけた。
「何を申す、世迷言《よまいごと》を――」
 その声の下から
「御尤《ごもっと》もでござります。お叱りは承知致しております。人様にも、誰にもいえぬ、奇怪な事がござりますゆえ、未だ、一言も申しませぬが、貴下《あなた》へ、せめて――」
「たわけたことを申すなっ」
 八郎太は、七瀬が夢のような事をいい出したので、怒りに顫《ふる》えてきた。常は、こんなではないのに、余り大事の役目で、少しどうかしたのではないか、と思った。
「然し、父上――母様、もう少し詳しく、腑に落ちるようにお話しなされては」
 と、小太郎が取りなした。
「黙れ、そちの知ったことではない」
「然し」
「黙らぬか」
「はい」
 小太郎は立上った。益満を呼ぶより外にないと思った。そして、玄関の次の間に行って、妹の深雪に
「すぐ益満を呼んで――母が戻って来たからと」
 深雪の背を突くようにして、せき立てた。

「――形を、見極めもしませずに、話のできることではござりませぬが、確かに、この眼で見たにちがいござりませぬ。急に、御部屋の中が暗くなりまして――齢の頃なら四十余り、その面影が、牧仲太郎様に、似ておりましたが――」

前へ 次へ
全260ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング