できぬが、噂が拡まる。一番、困るのは、拙者じゃ。中島兵太夫、以後、不義へは、睨みが利かなくなる。よいかな、このわしのことを、考えてくれ。又、父仲太郎殿の誠忠無比、一命を賭しての呪術を思い、又、己の行末のことを、思うたなら、ここは、一番、女と別れるのが、何よりの孝行、忠義じゃ」
一気に、こういって兵太夫は、冷たい茶を飲んだ。
「女も同じことじゃ。孫兵衛の倅は、よい男じゃ。気前も、武士らしい。調所殿が、見込まれた聟じゃし、その親爺も、調所殿の相談対手にもなった大町人じゃ。申し分は無い。百城も可愛かろうが、浜村へ行くと、又、浜村が可愛うなる。去る者、日々た疎しと申して、若い娘は、すぐ血の道を上げるが、暫く我慢して、外の男と添うておりゃ、又、その男の肌がよくなるものじゃで――な、ここは、わしの顔を立て、月丸の武士を立てさせ、その方の身の上も固めると、三方、四方よいように、さらりと、別れるのじゃ。よいかな、もし、ここで、わしの申すことを聞かぬと、わしも、留守居として、殿へ申訳がないから、その方は、母親へ送り届けて、母親諸共、暫く、窮命じゃ。又、百城とて、片手落の捌きはできぬから、仲太郎の許へ戻して、処置をつけてもらわにゃならぬ。何うじゃな、牧」
「はっ」
「女は?」
「よく、判りましてござりまする」
「それでは、別れると、此後一切係り合い無しと、これで、誓紙を作るがよい。早く、承諾してくれて、落ちついた」
兵太夫は、違い棚から、手文庫を下ろして来て、中から、紙を取出した。
「恐れながら――」
「何かの」
「暫時、両人にて、話しとうござりまするが、次の間を――」
「ははあ――それは、よいが、別れる決心は、したのであろうの」
「はっ」
「なら、少しは――よかろう。許す」
二人は、平伏してから立上った。兵太夫は、紙を延して、膝脇へ置いた。そして、自分で、茶をついで、飲もうとしながら、じっと、二人の入った次の間を見た。そして、厳格な、留守居役の顔になって、暫く、耳を立てていた。
憤死事件
牧仲太郎は、寝不足の眼を血走らせて、誰も入れない一間で、魔天の像を描いていた。
白い絹の上に描かれて行く魔天の線は、所々薄ぐろく、所々は紅であった。
眉を立て、眼を怒らせ、口を張った魔天の形は、巧みではなかったが、人に迫る凄惨さを現していた。
仲太郎の膝の右には、青磁色の鉢があった。その鉢の中に、淀んでいる赤黒い液体は、犬の血と、牛の血と、仲太郎の腕の血との混ったものであったし、魔天を描いている筆は、十三人の人間の生き毛と、八種の獣の毛とを合せて造った筆であった。牧は、その筆に、その血をつけて、一筆を下すたびに
「南無、大忿怒明王、法満天破法、十万の眷属《けんぞく》、八万の悪童子、今度の呪法に加護候え」
と、呟いたり、口の中でいったりしていた。
(調所殿が、敵党の奸策にかかって、毒死なされた上は、是非もない)
と、仲太郎は、決心したのであった。ただ一人、仲太郎の苦衷を知っている調所の死んだということは、仲太郎を落胆させると同時に、狂憤せしめた。
(是非もない――かかる上においては、恩師と雖も容赦すまい。調所殿を殺す人間に、本当の、人間の値打は判るまい。まして、謂わんや、怪奇にして神業の如き、この呪法の判ろう道理がない)
牧は、ただ一人の、心からの信仰者にして、且、庇護者である調所を失ったことが、淋しくもあったし、情なくもあった。
(大殿、斉興公から、多少の加増があるくらいで、己の命をちぢめてまで、この呪法を拡めようとはしたくない。仮にも斉彬公の公子達《きんだち》を呪殺してまで、秘呪の威力を示そうとするのは、一つは、調所殿への知己に報いるためであり、二つには、御家のためであり、三つには、天下にこの法を拡めて、破邪に用いんがためであった。自分は、邪法の呪咀を行っているが、邪法は人を呪殺すると、己の命を三年ちぢめる。しかし、正法の呪法は、人を生かし、己をも生かす。それを知りつつ、恩師をも敵として、邪法を行っているのは、広く天下に、この秘呪の正統者を求めんがためであった。調所殿は、この心を知って、十分の言葉を下された。ただ一人の、その庇護者を失って――)
と、思うと、牧は、絶望し、自棄した。
(何うにでもなれ。この上は、威力の程を見せて、調所殿の後を追ってくれる)
牧は、黒い毛氈《もうせん》の上に坐ったまま、一筆一筆に、祈願と、命とをこめて、小さい大忿怒明王の像を描き終った。そして、暫く、それを眺めていたが、それを持って立上って、次の間の襖を開けた。
次の間には、四人の弟子が、祭壇の周囲に坐って、牧が行にかかるのを待っていた。牧は、灰色の顔をして、弟子の叩頭に、答えもしないで、壇上へ手を延して、戒刀を取り上げた。
今日の行の、ただな
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