て来た。参覲交代のために、帰国する旅支度の斉興が、躓くように、廊下を急いで来た。眼を光らせて、脣を顫わせて、危い足取りを、急いで、小走りに走って来た。手燭を持った若侍が、足許を照らしていたが、斉興の足とすぐ、ぶっつかりそうになって、その度に、燭が揺いだ。
地獄相
「綱手」
百城は、床柱に凭れて、膝を組みながら
「大阪へ戻っては――存じておろうが、取締りが、厳しゅうて、思うままには、逢えぬ。それで、ここで、ゆっくり、話をしたいが――御国許で、同志の人々は?」
外には、高瀬川が、音もなく、流れていた。綱手は、宿の女に、云いつけて買わした、京白粉、京紅で、濃い化粧をして
「母から、聞いておりますには――」
ちらっと、百城の顔を見た。そして
(男らしい――やさしい――)
と、思って、眼の底に残っている、百城の顔を楽しみつつ、俯向いた。
「それを聞かしてくれぬか? 同志の人々も、存ぜずには、手段も、廻《めぐ》らせぬ」
「でも、母は、女のことゆえ――」
眼に、十分の愛を――媚を現して、下から見上げて
「しかと、しましたことは――」
「いいや、母上は、男優りであるし、御存じであろう――略《ほぼ》、重だった人の名さえ聞いておけばよい」
「では、心憶えのままに――」
綱手は、首をかしげた。
「少し待て、硯を――」
百城は、床の間の硯をとった。
「水が、ござりましょうか」
硯の中は、乾いていた。百城が、手を叩こうとするのを
「これを――」
と、化粧した使い残りの水を、鉢から、指の先で、硯へ落して
「いいえ、妾が――」
百城が、墨をとったのを見て、硯を、自分の方へ引いた。百城は、微笑して
「手が、汚れるに」
綱手は、百城の差出した墨の端を、指ではさんでいたが
「まあ」
と、低く叫んで、やさしく睨みつつ、墨を引張った。そして
「お手々が、汚れます」
二人は、墨をもったまま、一寸、顔を見合せたが、百城が
「お互に、汚れた」
綱手は、真赤になって俯向いた。
「綱手」
百城は、左手を延して、綱手の手首を、握った。
「今夜は?」
綱手は、首を斜めにして、襟元の美しさを、見せながら、黙っていた。
「戻るか――それとも――」
「どちらなりと――」
「泊るか」
綱手は、小さい声で
「御意のままに」
百城は、手と墨と両方を放して
「さて、同志の面々は?」
綱手は、黙って、墨を摺り出した。百城は、懐中から紙を取出して、筆を、硯へ入れた。
「未だ、薄う、ござります」
「そなたの、情のように――」
「まあ――」
綱手は、筆を置いて、眼を見張りつつ
「では――貴下様の手で――濃くなりますように」
と、云って、硯を静かに、百城の前へ押しやった。
「摺ってはくれぬのか――怒ったか?」
「はい」
綱手は、俯向いて、少し、膝を百城から反向《そむ》けた。
「では、濃くしようか、濃くなるかの」
百城は、片膝を立てて、綱手の肩を、引き寄せた。
「町奉行兼物頭、近藤隆左衛門か」
百城は、紙へ、認《したた》めた。
「御同役の、山田一郎右衛門様」
「それから?」
「御船奉行の高崎五郎右衛門様(高崎正風の父)
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家老 島津壱岐
同 二階堂主計
物頭 赤山靱負
屋久島奉行 吉井七郎右衛門
弟御の 村野伝之丞
吉井七之丞
裁許掛見習 山口及右衛門
同 島津清太夫
兵具方目付 土持岱助
宗門方書役 肱岡五郎太
広敷横目付 野村喜八郎
郡見廻 山内作二郎(山内八二祖父)
地方検見 松元一左衛門
製薬掛兼庭方 高木市助
琉球館掛 大久保次右衛門(大久保利通の父)
広敷書役 八田喜左衛門(八田知紀)
関勇助(関広国)
諏訪神社宮司 井上出雲守
[#ここで字下げ終わり]
それから――軽輩の方々では――」
「軽輩は、よい」
百城は、書き終って、じっと、眼を通していたが
「成る程、いや、忝ない」
そういって、頷いた眼の色には、決心が、十分に現れていた。
「兄と、一緒に、お力添えを願いまする」
「おお、聞き遅れたが、小太郎殿は? よい方かの」
百城は、紙を懐へ仕舞った。
「はい、明日にも、下山して、と申しておりました」
「刀が、使えるかな」
「脚の疵が、癒りきらず、少し、危うござりますが、腕は、十分と申しておりました」
「流儀は?」
「鏡心明智流でござります」
「桃井春蔵の?」
「一刀流も、習いましたそうで――」
「目録か、免許か、その上か。なかなか、よく使えると見えるが」
「いいえ、免許は取っておりますが――」
百城は、じっと、考え込んだ。
「脚は? 跛を引くくらいに?」
「はい、少しばかり」
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