ら、指の先で、摘み上げて、暫く、いじっていたが、そのいじっている一粒を、静かに、口の中へ入れた。
 皺の多い、筋肉のたるんだ、歯の少し抜けた脣を、暫く動かしてから、ちょっと、眉を寄せて、水を、一口飲んだ。そして、両手を、膝の上に置いて、じっとしていた。
 人々は、寝静まっているらしく、何んの物音もしなかった。次の間には、茶釜が、微かに鳴っていた。
 調所は、自分のして来た努力の完成したことに、十分満足であったし、もう、これから後に、自分が出ようとする仕事の無いのにも、十分、安心ができた。
 腹の中が、少し熱くなったようであった。調所は、脣を嘗《な》めてから、もう一度、仏壇へ御辞儀した。そして
「ただ今、おあとを、お慕い申しまする」
 と、いった。それから、膝を斉興の居間の方へ向けて、同じように、頭を下げて
「つつがなく、御帰国、遊ばしませ。これにて、御家は、安泰にござりまする。御寿命の後は、冥途にて、又、御奉公を勤めまする」
 そういってから、暫く、言葉を切っていたが
「斉彬公にも、つつがなく、在しますよう。御幼君には、あの世にて、お詫び申し上げまする。老人の亡き後は、意のままに、御消費下されますよう。三年越しにて参りましたる江戸の形勢は、仰せの如く、開けて参っておりまする。御賢明の段、当家のために、祝着至極《しゅうちゃくしごく》、老人、思い残すところ、一つも、ござりませぬ」
 調所は、脣に微笑を浮べて、眼に、涙をためていた。それを、暫く、拭きもしないで、じっと、襖を凝視めたまま、微笑していた。遠くで、時計が、三つ鳴った。
 調所は、膝の上に置いている毒薬の入った掌を、口へ当てて、仰向いた。掌が空になると、水を取上げて、一息に飲んだ。そして、仏壇と、斉興の方とへ、御辞儀をして、床の上へ坐った。白い木綿の下蒲団の上に、甲斐絹《かいき》の表をつけた木綿の上蒲団であった。その上へ、仰向きになって、眼を閉じた。幾度か枕を直してから、身動きもしなくなった。

 だんだん、胃が熱くなって、呼吸が、せわしくなり出した。
(楽に死ねると、いっていたが――)
 調所は、熱さを増して来る胃の腑を、じっと、眺めていた。そして、脈へ手を当てると、脈搏《みゃくはく》は、急であった。自分でも、感じるくらいに、呼吸が烈しく、肩が、自然に動き出した。然し、胃は、それ以上に、熱くなって来なかった。
 その内に、身体中が、少しずつ、倦《だる》くなってきた。関節が、倦くて、堪らないから、揉みたい、と思ったが、もう、手を動かすのも、厭であった。
(いよいよ毒が、廻ってきた。この位で死ねたら――)
 と、思った。倦さが、少しずつ薄らぐと、手の先、足の先の感じがなくなって、いつの間にか、胃は、熱くなくなっていたし、呼吸が早いが、低くなっていた。そして、だんだん眠さが、拡がってきた。
(深雪を、赦してやれと、いったが、赦したかしら?)
 調所は、少し、口を開けて、静かに、呼吸をしていた。
(鬱金、十二貫目)
 調所は、袋に入れた、鬱金の包が、近くにあったり、遠くにあったりするのを見た。
(将曹は、奸物じゃ。然し、斉興公の御引立を蒙ったわしが、斉彬公の御味方になれるか? 奸物と申しても、綱手と申す女は――益満か――御金蔵に、火がついた?)
 調所は、脣に、微笑をのせて、少し、口を動かした。
(わしは、何を、考えていたか? 夢をみたのか?――いいや、死んで行くのじゃ。ちがう、今死んでは、島津の家を、何うする?――島津――島津というのは――)
 調所の、眼の下に、脣に、薄い隈取《くまど》りが出てきた。細く、白眼を開けて、薄く、脣を開いたまま、だんだん冷たくなって行った。二三度、微かに、蒲団が、動いた。
 四つの時計が鳴って暫くすると、邸の中が騒がしくなった。人声は低く、物音は高く。それは、邸内のみでなく、門の外にも、馬の嘶《いなな》き、馬蹄の音、話声がしていた。
 長い廊下の端から、調所の部屋へ、近づく足音がして
「御家老様」
 と、いう声がした。
「御用意を、お願い仕りまする」
 暫く、そういったまま、黙っていたが、返事が無いので、立去った。
 物音も、人声も、だんだん高くなってきた。そして、小走りに、走って来る足音がして
「調所殿」
 と、叫んだ。返事が無かった。
「御免下され」
 襖が開いた。仏壇の明りは、微かになって、またたいていた。
「御出立でござりまするが――」
 侍は、臥っている調所に、こう声をかけて、じっと、顔を眺めていたが
「調所殿」
 と、叫んだ。そして、さっと、顔色を変えて、膝を立てて、滑るように、近づいて、額へ手を当てた。素早く、経机の上を見た。胸へ手を差込んだ。そして、立上ると、廊下を、けたたましく走って行った。
 暫くすると、忙がしく、大勢の足音がし
前へ 次へ
全260ページ中124ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング