振返った。
「手前のところに引止めてござりまする」
「召出してくれんか」
「かしこまりましてござりまする」
 人々は、何か、相当大きい事件が起っているにちがいない、と思った。名越と同志の二三人の若者は
「何事でござります」
 と、咽喉まで声の出ているのを我慢していた。名越は一礼して出てしまった。
「そこで――この写真だの、電信機などの出来たのは、何んの力かと申すと、理化学によってじゃ。理化学と申す学文は、仮《たと》えば、水は何から出来ているか、ということを研究する」
「水は、水からではござりませぬか」
「誰しもそうとしか思えぬ。然し、紅毛人達は、水の無いところに、水のたまるのへ眼をつけた。仮《たと》えば、煙管の中に、水がたまる。煙と、火ばかりで、水の縁が無いのに水ができる。これは、何故であろう?」
「唾気《つばき》がたまるのでは――」
「唾ではない」
 と、斉彬がいうと、二三人が
「それが、何故に水がたまります」
 と、口をそろえた。
「それで、いろいろと実験した結果、水は、水素と、酸素と申すものから、成立っているということが判った」
「はあ」
 一人の若者は、熱心に斉彬の顔を凝視して、呻くように答えた。
「酸素と申すものは、どういう形で」
「形は無い」
「色は」
「色も無い」
「臭は」
「臭も無い」
「はて、屁玉より掴みどころのない――」
 人々は、笑った。だが、その若者は、真面目な顔で
「どうしてそれが判りましょうか」
「詳しいことは、皆方喜作に聞くがよい。あれの家には、実験所もできている」
 斉彬は、人に命じて作らせている大蒸汽船、紡織機械、ピストンの鋳造機、電信機などの設計図のことなど思い出して
(調所は、可哀そうに――)
 と、軽く胸をしめつけられた。
(当家は代々、内訌《ないこう》によって、いい家来を失うが、いつまで、この風が止まぬのか)
 と、思うと、自分が、自分の命を脅かされ、子供を殺されても、無抵抗でいるのに、何うして、自分の近侍に、その気が判らないのかしらと、腹立たしいような、悲しいような気持になってきた。
「益満休之助、御目通りを」
 と、襖外で声がした。

「益満、調笑の事を、御老中へ訴えたと申すのは、真実か」
 斉彬は、もう、平素のように柔かな眼をしていた。
「はい」
「何んと、考えて、訴えたぞ」
「はい」
 益満は、頭を上げて、正面から斉彬を見た。決心と、才気との溢れた眼であった。
「これより申し述べますること、御賢察願わしゅう存じまする。素より数ならぬ軽輩の身、もし誤っておりましょうなら、刀にかけて、申訳は仕りまする」
 益満は、畳から、手を揚げて、膝の上へ置いた。
「最早、かの老人は、有害無益、為すべきことを為し終った上は、ただ一日も、早く死ぬべきものにござりまする。常々、お上の仰せられますが如く、異国との交易は、そのうち、天下公然として営むことに相成りましょう。調所殿の功績は、ただこの一点。承りますると、最早三百万両の非常準備金も、できましたよし。一介の茶坊主より立身して、この功業を為し遂げました上、御家老の列に入り、功成り、名を遂げたる次第。而して、その時こそ、調所殿の死すべき好機にござりましょう。この上の長命も、人の情として、又、某と致しましても、願いまするのは当然のこと。この島津の功臣を、罪無くして殺すことは、致しませぬが、この功績と共に、一方、お由羅方に通謀して、赦すまじき悪逆を企てたる罪、その張本人の一人として、天より、罰を下されるか、人の手にかかるか、当然、調所殿の負わねばならぬ罪にござりまする。もし、お為方の誰かの手にかかり、斬殺でもされましょうなら、調所殿のために惜しみても、余りありますること。今日、某、訴人したる罪を負うて、自裁なされますなら、その最期の潔さ、それこそ、調所殿の一生を完《まっと》うするものに、ござりましょう。さて――」
 益満は、赤い頬をして、米噛に筋を立てていた。斉彬は、眼を閉じて、一言も云わなかった。その外の人々は、俯向いたり、腕を組んだり、益満の顔を見たりしていた。益満は、言葉をつづけた。
「ただ一つ、訴状の筋、禁を犯しましたることが、無事、調所一人の自裁にて、納まりますや、否や、老中が、差赦しますか、何うか、軽輩、某の如き身分として、御老中の心中、幕府の政策を窺うのは、僭上《せんじょう》至極の沙汰に存ぜられまするが、某、思いまするに、幕府は最早、諸大名に対し、その勢力を失墜しておりまする。又、御老中阿部殿は、穏和至極の人にござりまする。第三に、お上とはただならぬ交りの仲にござりまする。第四に、禁を犯して、密貿易を行っておりまする家は、外にもござりまする。第五に、それを、従来より黙認致しておりまする。第六に、密貿易は、国益になることにござりまする。第七に
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