綱手は、こういう時に、益満に逢えたなら、と思った。
「疵は、皆浅手じゃで、心配することは無い」
「腹の疵も、少し痛むくらい――」
 と、小太郎は笑った。
「自分で斬ったのが、一番、深手じゃとは、おかしい、あははは」
 綱手は、二人の話によって、小太郎が、自分で腹を切ったと判ったが、それに対して、口を利くことさえできなくなっていた。月丸のことで、頭の中に熱い風が吹きまくっていた。

  調所の死

 斉興は、調所が、襖のところへ平伏したのを見ると
「何うじゃったな」
 と、声をかけた。調所は、それに答えないで、静かな足取りで、斉興の前へ来て
「御人払いを――」
 その眼の中にも、言葉の中にも、いつもの調所に無かったものが感じられた。
「人払いか」
 と、斉興は、軽い不安を感じながら
「皆、退れっ、遠慮致せ」
 と、手を振った。近侍達は、一人一人、礼をして、作法正しく、次の間へ立って行ってしまった。
「何事じゃ。又、わしに隠居をせいと――かな」
 調所は、黙って、首を振った。それから、じっと、斉興の顔を見て
「手前、覚悟致しておりました時節《とき》が参りました」
「覚悟しておった?――何ういう覚悟」
 調所は微笑した。
「十余年前に申し上げました覚悟――万一、密貿易《みつがい》露見の暁には、手前、一身に負いまして、御家の疵には――」
 と、まで云うと、斉興の眼は、鋭くなって、叱りつけるような口調で
「そりゃ、真実か。真実、露見致したのか」
「致しました」
「そいつは伊勢(老中、阿部伊勢守)の手に握られているのか」
「はい」
「何んとして?――誰が、そのような――」
「心当りもござりまするが」
「誰じゃ、其奴は――」
「匹夫の業、格別咎め立てしても」
 斉興は、烈しく、首を振って
「いいや、八裂きにしても飽き足らぬ奴。他国《よそ》者か、家中の者か」
「その詮議は後として、御前、伊勢の手に、証拠が入りました以上は――」
「何ういう証拠が入ったか?」
「しかとは存じませぬが、それにも、心当りがござります。然し、緊急の御相談は――密貿易《みつがい》の罪は、手前負うと致しまして、手前亡き後の財政処理のこと、又、密貿易を、今のままに続けるか、続けぬか? 琉球の処置方、同意町人共の処置方、又、もし、公儀より、この件について、御手入のあった場合の時のこと、又、手前以外の貿易方御取調べのあった節、何う口を合せるか。それから、手前の務と致しまして、亡き後の物品の処置方、帳面の整理、引合せ等、いろいろの、短い時日の内に、山の如くござりますゆえ、御大儀ながら、その辺、御意見をお洩らし下されますよう――」
 斉興は、俯向いて、じっと、調所の言葉を聞いていたが
「忝《かたじけ》ないぞ」
 と、低く呟いた声は、湿っていた。調所は
「はい」
 と、答えて、同じように俯向いた。
「二十年近くの間、今日死ぬか、明日死ぬかと、覚悟をして来てくれた心底、わしにはよく判っておる。忝ない。笑左、改めて礼を申すぞ」
 調所は、答えなかった。
「島津を救い、島津の礎を築いてくれた功績は――」
 斉興は、脇息から手を放して、両手を膝の上へ置いた。
「家中の者に代り、御先祖代々の御霊《みたま》に代って、礼を申すぞ」
 調所は、畳へ両手をついたままであった。

「笑左――然し――」
 斉興は、手早く、眼を拭いて、いつまでも黙って俯向いている調所へ
「何か、よい分別はないか」
「手前――」
 と、いって、調所も、指で眼頭を押えた。そして、少し紅味がかった眼を上げて、微かに笑いながら
「勇士は馬前の討死を本望と致しますからには、手前は、密貿易にて死ぬのを、本願と致します。この齢をして、三年、五年生き延びんがために、なまじ、悪あがきは致したくござりませぬ」
「うむ」
 と、斉興は、大きくうめいた。
「御茶坊主から取立てられまして三千石近い大身となり、家老格にも列しました上は、仕事は、まず、十中八九までは成就、最早思い残すこともござりませぬ。それに、竹刀持つすべだにも存ぜぬ手前、腹の切りようは、勿論、存じませぬが、従容死に赴いて、死に対する心得のあったことだけは、老後の思い出、若い者に、示しておきたいと存じまする。ともすれば、坊主上りと、世上の口にかかりますが、その坊主上りの死ざまを見せて、冥途の土産にと、平常から――」
 と、いって、調所は、手を懐へ入れた。そして、紙入を出して、その中から、小さい錫の容物《いれもの》を取出した。
「毒薬でござりまする」
 斉興は、黙っていた。
「伊勢の手にて取調べるにしても、まだ、十日、二十日は命がござりましょう。その間に、御奉公の納め仕舞、もう一儲けしておいて、さようならを致す所存、先刻申し上げました処置方のいろいろに就きまして、掛《かかり》の者共を、御
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