底から、少しずつ湧いて来た。だが、もう、何うしても、障子を開けて、小太郎の居間へ入る勇気は出て来なかった。退くか、義観と戦うか? その二つが混乱して、月丸の頭の中を走り廻った。
(もう一度、あんな、薄気味悪い声を聞きたくはない――戻ろう)
と、思ったが、戻りかけたなら、何かしら、あははははと、笑われそうな気がした。月丸は、四方から、義観の眼を浴びていると感じた。
少しずつ、恐怖が薄らいで来ると共に、月丸は、声のした障子のところから、一寸、二寸と、身体を離しかけた。
(黙っていろ――声をかけるな)
と、いうような、臆病な心が起って来たが、何んなに、それが、卑怯だと叱ってみても、止まなかった。廊下の端へ近づくと、月丸は、片脚を延して、土へ触れさせた。そして、ほっと、安心し、呼吸をついだ時
「馬鹿がっ」
それは、大きく、鋭く、月丸の肚の中を、拳で突き上げるように、響いた。頭の中へは、ぐゎん、という音と共に、いっぱいに拡がった。それは、声でなくて、人間の内臓を、頭の中を、その内部から撲ったようなものだった。
月丸は、よろめいた。そして、一気に、崖を飛び降りた。そして、立木にぶっつかりつつ、凹地に躓《つまず》きつつ、走り出した。
魔物の住家に、いるように感じられた。寺へ戻って来たが、義観は、すぐ、その障子の外で、未だ自分を見ているように思えた。
荒い足音、障子を開けたので入って来た冷たい風に、綱手は、眼をさました。
「百城様」
月丸は、綱手の声で、心強くなった。周章てている呼吸、狼狽している心臓を押えながら、鞘へ刀を納めて、手早く、蒲団へ差込んで
「未だ、眠らぬか」
「貴方様は――何ちらへ」
「わしか――」
月丸は、綱手も、自分が、小太郎を斬りに行ったのを、知っているのではないか、というように感じた。
「わしは、厠へ」
「冷とうございますから、早う、お臥みなされませ」
綱手は、媚と、品位とを含んだ、滑らかな口振でいった。
「寒いのう――程なく、夜が明けよう」
「ほんに、寒い――」
月丸は、それが、自分を添寝に呼んでいるのだ、と思ったが
「明日は、又、歩かねばならぬから、早く眠るがよい」
「歩くとは?」
「大阪へ戻らねばならぬ」
綱手は、暫く答えなかったが
「妾も――」
「いいや、そなたは意のままに――」
綱手は、又、暫く黙っていた。
「小太郎は、あの――老僧の手当で十分であろう。然し、介抱して上げるがよい。わしは、いろいろと用があるゆえ、早く戻らねばならぬ」
「でも――来る時は、四五日――」
「思い出したことがあっての」
「では――帰りは――妾、一人?」
「迎えに――迎えに、京まで参ってもよい。綱手、ここで一日、二日別れたとて、一生別れる訳でもあるまいに――」
「それは、そうでございますが――」
綱手は、起き上ったらしく、蒲団の上の方で声がした。そして、衣ずれの音がしたので
「何処へ」
「一寸」
「厠へか」
「はい」
綱手は、月丸の枕頭のところを、静かな足取りで歩んで行ったが
「ま、砂が――ああ、ここら――一面に」
立止まったらしく
「誰か――入ってまいったのでござりましょうか。ひどい土が――」
「土?」
月丸は、自分の周章てていたことに、怒りが生じてきた。そして、それを執拗に、大仰らしく調べている綱手へも腹が立ってきた。
「まあ、お枕の方へ――」
「狸でも入ったのであろう。よいではないか」
「狸が」
「山のことじゃ」
「まあ、気味の悪い、妾――」
綱手は、月丸の枕近くへ寄って来た。
「武士の娘が、狸ぐらいを――」
月丸は、綱手を叱ったが、綱手の廊下へ出るのを見に自分が立ったなら、障子の外に義観がいるような気がした。
「でも――」
綱手は、媚びるように、甘い口調であった。
「そこまで見てやろう――子供でもあるまいに――」
月丸が立上ると、すぐ綱手に触れた。二人の手は、互に探しあった。
「まあ、冷たいお手々」
綱手は、自分の両手の中へ、月丸の右手を挟んで押えた。
「連衆《つれしゅ》は、何うした」
と、義観が聞いた。
「用事がござりまして、大阪へ戻りましてござります」
綱手は、誰に逢うのも恥かしかった。誰でも、百城と自分との仲を知っているように思えた。顔か、身体か、眼か――何っかに、変ったところができているように思えた。
「昨夜は、何んともなかったかな」
義観のこういった言葉は、やさしく、低かったが、綱手には、月丸と二人のことを知っている言葉のように思えて、真赤になった。そして、義観の、柔らかであるが、底光のする眼は、すっかり二人の仲の何もかも知っているように思えた。綱手は、返事ができないで、俯向いてしまった。
「あの若者は、利発じゃが、気をつけんといかん」
綱手は、一々自分のことを指
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