逃げよった奴を、救うてお出でなさったやおへんか。なあ、爺さん、血だらけで、虫の息で、誰も、かまいて無いのを――」
「婆さん、ちがうがの。道側に倒れていたんを、お坊さんが見つけて、京の屋敷へ引渡そうというたのを、義観さんが、まあまあいうて、御自分の庵室へ、連れ戻りなされたんやがな。それで、お侍様」
 爺が、立上った。
「その若いお侍を連れて戻ると、何んと、義観さんは、山に捨ててあるのは、この人の父親にちがいないと、一人で、頂上へ、お越しなされて、何うどす、血みどろの死骸を、担いで降りて来なさったやおへんか。そして、庵室の前へ埋めて、その倅の方を、貴下、義観さん一人で手ずから介抱してなさるそうやが、これは義観さんでないと出来んことやと、大評判どすがな」
「いや、忝《かたじけ》ない。そして、その義観の庵室は」
「根本中堂の下どす。あんた行きなはるか」
「うむ」
「けったいなお坊どすえ」
「ははあ、何う、けったいな」
「一風、二風、三風、も変ってますね。物をいわなんだら、一日でも、黙ってる――」
 綱手が、立上った。百城も、鳥目《ちょうもく》を置いて立上った。
「有難うございます。御綺麗な、京にも、こんな御綺麗な、夫婦衆は、一寸、見られまへんどすえ。有難う存じます。何うえ、このお美しさは」
 婆さんは、そう云って、綱手に見惚れていた。

 杉木立の、鬱々とした、山気と、湿気との籠めている中に、大きい堂が、古色を帯びて建っていた。傾斜した山地を、平にしたところに建っていて、その堂へ行く細い苔道には、いくつも、杉丸太が二三段ずつ横にした、段があった。綱手は、膝頭を押えるようにして、その一つ一つを登って行った。
「お頼み申す」
 何んの答えも無かった。綱手は、どこに、父の亡骸が埋めてあろうかと、見廻したが、そうしたらしい、新しい土の盛上ったところは、どこにも無かった。皆、草と、苔とが、物静かに、清らかに、黙っていた。
「お頼み申す」
 百城が、前より大きく叫んだ。遠くに鳴く、小鳥の声と、高い梢を渡る風の音しかしなかった。
「物申す、義観と仰せられる方のお住居は」
 微かに、部屋の中で、音がした。深い、屋根の下、高い杉の下に陽を遮られて、障子の色は沈鬱であったし、縁側の、朽ちかけた板は、湿っていた。物音はしたが、又、そのまま、静まり返ってしまった。
「誰方か、おられませぬか」
 百城は、こういいながら、縁側と、急傾斜な土手との間の、狭いところを、堂の後方へ廻りかけた。微かな人の呼吸らしいものが聞えた。
「お頼み申す」
 百城が、立止まった。綱手は、きっと、兄の呻きだと、思った。その時、ばさっと、葉にすれる音が、堂の真上の木立の中でした。二人が、見上げると、老僧が、枝から、枝へ手をかけながら、猿のように、急傾斜な山の茂みの中を降りて来た。
(これが、義観だ)
 と、二人は思った。
 老僧は、道の無い山に、道が有るらしく、少しも、躊躇《ちゅうちょ》しないで、杉の幹に手を当て、灌木の枝を掴み、大きく飛び降り、滑り降りして、忽ちの内に、堂の後方へ消えてしまった。百城が、歩きかけると、僧は、部屋へ入って来たらしく、足音がした。
「お頼み申しまする」
 障子の中から
「誰方じゃ? 御用は?」
「当所において、御介抱にあずかっておりまする者の妹、並びに、付添に参った百城月丸と申す者――お眼にかかれましょうなら」
「ああ、さようか、お上りなされ」
「勝手元は? 足が汚れておりまするが」
「そのまま」
「はい」
 二人は、脚絆をはずして、埃を叩いた。そして、襟を、裾を合せ、障子を開けた。七輪に、土鍋をかけて、草を、膝の左右へ並べて、薄汚れた白衣の老僧が、坐っていた。二人が手をつくと
「ほほう、似ておる」
 と、綱手に、微笑して、すぐ、百城を見たが
「御夫婦か」
 綱手が、首を振って
「いいえ」
「身寄りか」
「いえ、身寄りでも――」
 義観は、じっと月丸を眺めていたが
「利発な方じゃが、瞳中少し、険難だの」
「剣難」
「剣ではない、陰険の険」
「はっ」
「ま、気をつけるがよい。病人は、全身に十二三ヶ所疵している。命に別条はない。ただ、熱が高い。これから、薬を煎じるのじゃが――その間に、顔だけ見るがよい。未だ囈言《うわごと》をいって、正気づいておらん」
 義観は、草を持った手で、次の間を指さした。

 小太郎は、汚れた、白い、薄い、蒲団を被て、つつましく臥っていた。頭から、耳、頤へかけて陰気な部屋の中に、くっきり白く浮き立つ繃帯をして、片方の眼だけ、微かに、白眼を見せて、眠っていた。
 顔色は、灰とも、土とも、白いとも、つかぬような色をして、江戸の時と、一月にもならぬのに、げっそり痩せてしまっていた。そして、時々呻いた。
 綱手は、そっと手を額へ当てた。熱かった
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