の役によい者がおりまする、両三日の内に――」
 牧は、無言で、頷いて、歩み出した。襖へ手をかけて、振向くと
「御部屋、御自身の濫りの修法は、なりませぬぞ」
 と、いった。
「心得ております」
 牧は、そのまま礼もしないで、真暗な次の間へ消えた。お由羅は、気味悪い、少し悪臭のある部屋の中で、じっと坐ったまま、微笑していた。

  崩るる淵

 蛇にしめつけられているような悪夢が、小太郎の頭の中いっぱいになり、身体の四方を包んでいた。
 狂人のような眼を剥き出して、刀は、何処へ捨てたのであろう? 脇差を、尻の方に差して、口を開いて、血染めの片手で、脇腹を押え、片手で頭を押えて――切り裂かれた袴を引きずり、顔にも、着物にも、血をこびりつかせて、身体で、脚をひきずって行くように――よろめきつつ、立止まりつつ――
(水だ――水だ)
 じっと、一所を見ていた眼が、顔が、水音の方へ向いた。脚だけが、残りの力を集めて動いているだけで、手は、何処を押えているのか? 眼は、何を見ているのか、判らなかった。身体は、痛みに、燃えていたが、もう、自分の痛みなのか、人の痛みを、自分で感じているのかさえ、判らなかった。
 頭の毛が、手の血にくっついて離れなかった。その手を、人の手のように感じながら、静かに頭から放して、自分の前に、水が流れているように、震わしつつ、突き出した。そして、眉をゆがめ、肩で呼吸をしながら、小さい流れの方へ、身体を引きずった。
 蹲もうとすると、膝頭が、痛んで、曲らなかった。太腿へ、両手を当てて、少しずつ、蹲みながら、前へ転びそうになるのを支えて、暫く、そのまま眼を閉じていた。
(もう、追手に見つかって殺されてもいい。殺された方がいい。何れは、死ぬ――水を飲むと死ぬというが、死んだ方がいい)
 というようなことが、頭の中で、ちらちらした小太郎は、疵所の痛みと、深さとに、すっかり疲労してしまって、それ以外のことは、考えられなくなっていた。
(水だ、水だ)
 眼を開いて、手と、身体とを、前へ延すと、よろめいた。そして、片膝つくと、倒れてしまった。
(もう、動けない)
 暫く、そのままでいた。水の音と、風が葉末を渡るほか何も聞えないし、水の白く光っているほか、何も見えなかった。左手で、草をさぐり、水辺の近いのが判ると、草を掴んで、身体を、水の方へずらした。そして、右手で、水を掬《すく》って、掌の凹みから飲んだ。一口飲むと、つづけさまに、飲んだ。
 水は、水の味でなく、慰めと、薬と、この上ない甘い味とをもったもののように感じられた。小太郎は、水を飲み終ると、そのまま、草の中へ、顔を伏せて、身動きもしなかった。父の声のようなものが、耳の中でなく、外からでもなく、頭の中にでもなく、聞えているような、聞えないような――
(小太郎、右へ――)
 この耳で聞いたのだろうか?――父が、生きているような、殺されたような――殺されたにちがいないが、起き上って来たあの血染の姿――死んでいないのではないだろうか?――そう思うと、その辺に、父がいそうな気がして、顔を上げた。そして、見廻した。
 空には、冬の星が、冷たく、高くまたたいていた。
(動けない)
 小太郎は、自分の脚が、二本の重い、鉄棒のように感じた。自分の手は、こわれ易い土製のように思えた。
(明日の朝になれば、見つかって、殺されるであろう――それでもいい)
 小太郎は、又、水を飲んだ。水が、水の味をしていたし、冷たかった。手が、血で固くなっているのも判った。

 小太郎は、人の頭を、子供がいじるように、自分の頭の疵を掌でたたいて、指でいじってみた。疵口は、血でかたまっていた。
(そう深くはない)
 と、感じた。それから、手を這わせて、灼けつくように感じる身体の疵所へ、指を当てた。腕の疵は、口を開いていて、指が切口へくっついた。脇腹の疵は、疵よりも、そこから流れ出た血で、着物の肌へこびりついている方が大きかった。
(深手はないらしい)
 と、思った。と同時に
(死んではならない)
 然し、そう感じて、動こうとすると、身体は、鉛のように重かった。
(牧に捕えられては?)
 そう思うと、ここで、死んだ方が、立派な最期のように思えた。小太郎は、左手で、腰をさぐった。刀の鞘も無くなっていた。手を廻すと、脇差があった。
(腹は切れる)
 小太郎は、一尺二寸しかない脇差が、世の中で、一番頼もしい友達のように思えた。そして、脇差を力に、起き上ろうとした。一時に、身体も、手も、脚も痛んだ。
(これしきに――)
 半分、身体を起して、片手に脇差を、片手を地に、支えながら、起き上って、足を投げ出した。
(ここは、京だ。十三里西へ行くと、母も、妹もいる。逢いたいが――)
 涙も出ないし、悲しくもなかった。
(然し、逢えぬ。
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