の水を流して、一分ずつ、二分ずつ――それは、大事をとる庄吉の用心からであった。一度に、一寸も、二寸も開けて、もし、音がしたなら、それは、自分の身の破滅でもあり、又深雪への恋心、深雪へ一手柄を立てさせ、自分の男の意地を貫こうとすることに対して、何んな破綻を来すかも知れない、と思う用意からであった。だが、心の中では
(泥棒様は、初開業だ。うまく行きゃあ、お慰み――じれってえが、ここが辛抱のしどころだ――ならぬ辛抱、するが辛抱――)
指で計ると、五寸余り開いていた。
(南玉が、いつか、高座で云ったっけ――何んとかの、頭陀《ずだ》袋、破れたら縫え、破れたら縫え――ってんだ)
一尺余り開いた隙から、身体を横にして、廊下へ出ると、開けるのと同じような忍耐で、襖を閉めた。そして、階段《はしごだん》の上へ出ると
(ここが、千番に一番の兼ね合い、首尾よく、音も無く降りましょうものなら、お手拍子、御喝采、テテンテンってんだ)
庄吉は、階段の板を踏んで、音の立つのを恐れた。
(太夫、高座まで、控えさせまあーす)
と、口の中で、云いながら、頑丈な、手摺《てすり》へ跨《また》がって、やもりの如く吸いついた。そして、一寸ずつ、二寸ずつ、その都度、四辺の人の気配を窺いつつ、静かに、音も無く、滑り降りて行った。
庄吉は、暫く、階段の下へ蹲《しゃが》んでいたが、黒い布で頬冠りして、尻端折になった。柱行燈の灯が、遠くに、ほのぼのとしているだけで、ここから、調所の部屋までは、廊下だけであった。真暗な、闇だけであった。
壁へ、身体をつけて、横に伝って、供部屋の様子を窺った。小さい、鼾《いびき》の外に、何んの音もなかった。庄吉は、耳を澄ましつつ、静かに、供部屋の前を、這って通った。そして、板の臭、壁の臭を嗅いで、さっき、酔った振りをして、見定めておいた、調所の部屋の前まで来て、詰めていた呼吸を少しずつ吐き出した。
(やり損えば、首は提灯屋へ売って、胴は蒟蒻屋へ御奉公だ。南無天王様、観音様)
濡れ手拭の水を、敷居へ流し込んで、じっと、内部の気配を窺っていた。咳も無く、音も無く、鼾も無かった。顔が、ほてって、心臓が、どきどきしてきた。
(庄吉、周章《あわ》てちゃいけねえぞ)
と、首を振って、一分ずつ、二分ずつ――呼吸が苦しくなって、大きく吐きたいのを我慢しながら、顫える手を、膝を、顫わすまいと制しつつ――五寸、六寸、それは、短い時間であったが、庄吉には、耐えきれぬくらいに、長く感じた。だが、障子は開いた。庄吉は、障子を開けたまま、廊下の外に、猶《なお》、暫く、蹲んでいた。
調所笑左衛門は、十年の間に、島津の家の基礎を作った人であった。常人以上の才分と共に、常人以上の精力と、胆力とを持っていた。
二十年前、重豪公から、斉興公から、藩財整理を命ぜられたその日から、朝は五時に起き、夜は十二時に寝る人であった。そして、武芸者が、微かな音にも眼を醒すように、敏感な調所の神経は、夜中にも働いていた。
だが、庄吉は、そういう、自分達と、類のちがった人を考えてはいなかった。調所は、眠っていると信じていた。夜中には、誰も、熟睡しているものと、考えていた。そして、調所も、熟睡はしていた。然し、障子が、一尺余り開いて、肌寒い、冬の夜風が、襟元へ当ると共に、眼を醒した。そして、そのまま、気配を窺っていた。
(手函を――)
と、思ったが、迂濶に音立てたり、騒いだりしたくはなかった。茶坊主上りの調所ではあったが、人並の腕をもっていた。供部屋を起すには、まだ早い、と思った。
庄吉は、部屋の中に音がしないのを知ると、静かに手の先を畳へつけ、それから掌を下ろし、掌の上へ腕の重さを、その上へ、身体をと――音もなく、這い出した。きまりきった宿の部屋であったから、闇の中でも、床の間の在所《ありか》、そこを枕としている調所の臥床《ふしど》は、想像できた。
庄吉は、手さぐりに、押入の襖をさわり、襖伝いに、上手の方から、床の間の方へ這って行った。
調所は、蒲団の中へ持ち込んでいる、波の平の脇差を、音もなく、鯉口を切った。そして、庄吉が、一寸ずつ、二寸ずつ、這って行くのと同じように、調所も、一寸ずつ、二寸ずつ、夜具を持ち上げた。
庄吉は、床柱へ手を触れた。そして、触れると共に、じっと、蹲んだ。そして、調所が、何んの音も立てないのを見定めて、床の間を、盲目さぐりに――左から右へ、右から左へ――指が当っても、掌に触れても、音立てないように、ゆっくりと、手を動かしかけた。
調所は、夜具を除けて、音もなく、坐った。そして、刀を抜いて、鞘を夜具の上へ置いた。そして、耳を澄ましていたが――すぐ片膝を立てて、右手に、脇差を構えた。風が、時々、薄ら寒く入って来た。
庄吉の手に、冷たい、すべすべした
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