水をそそいだ。煙は、濛々《もうもう》として、生物のように、天井へ突撃し、柱、襖を這い上って、渦巻きおろして来ると、炉の中の火が、燃え上って、部屋の中が、明るくなった。
お由羅は、暫く眼を閉じて、何か念じていたが
「南無、金剛忿怒尊、御尊体より、青光を発して、寛之助の命をちぢめ給え」
と、早口に、低く――だが、力強くいって
「相《そう》は?」
と、叫んだ。と同時に、侍が
「蛇頭形」
と、叫んだ。火炉の中の火焔は、蛇の頭の形をしていた。槍形、牙形というように、焔の形によって判断をするのが、調伏法の一つであった。
お由羅は、また、眼を閉じて、護摩木を投げ入れ、毒薬と、丁香とをそそぎかけて
「色は?」
と、叫んだ。
「黒赤色」
黒赤い、凄さを含んだ火焔が、ぱっと立っていた。
「声は?」
「悪声《あくじょう》」
それは、焔の音を判じるのであった。
煙と、異臭とが、部屋の中で、渦巻いた。お由羅は右手で、蛇の皮を、犬の胆を、人の骨を、炉の中へ投げ入れて、その度に
「相は?」
とか
「声は?」
とか――火焔の頂の破散で判じ、音で判じ、色で判じ、匂で判じて、調伏が成就するか、しないか――額は、脂汗が滲み出していたし、眼は異常に閃いていた。手も、体も、ふるえて、いつもの、甘い、女の声が、狂人のように、甲高《かんだか》くなっていた。
焔を、見つめていた侍が、お由羅の、顔を眺めて、立上った。索縄を、壇上へ置いて、刀を持ち直して、お由羅の右手へ廻った。そして、何か、口の中で呟いて、お由羅の手をとると、お由羅は、半分失神し、半分狂喜しているような、凄い眼を閉じて、右手を侍の方へ突き出した。
浅黒い、だが、張切った、艶々した腕が二の腕までまくり上げられると、侍の手に引かれて、火焔の上の方へ、近づいた。
「南無赤身大力明王、穢迹忿怒明王、この大願を成就し給え」
侍は、こう叫ぶと、刀の尖《さき》を、手首のところへ当てて、青白く浮いている静脈を、すっと切った。血が、湧き上って来て、見る見る火の中へ、点々と落ちた。
二人は、そのままの形で、俯向いて、何か念じると、だんだん、お由羅が、首を下げてきて、左手に金剛杵をもったまま、壇上へ、片手をついてしまった。その瞬間、侍は、疵口を押えて、火の中へ倒れかかろうとするお由羅を、後方へ押し戻した。
「大願成就、大願成就」
と、いいながら、お由羅の両手を、胸のところへ集めて、抱きかかえながら
「お方」
背を押して、叫んだ。お由羅は、眼を開けて、自分で手首を押えて、軽く、お辞儀をした。侍は、布を出して、膏薬を貼った上から、縛った。お由羅は、しびれた、痛む胸を、這うようにして、壇から降りて
「火が、みんな、左へ廻りましたの」
と、微笑した。
「吉相にござります。焔頂、左に破散して、悪声を発す。今夜の内に、成就致しましょうか」
「牧は、今夜あたり、お国の何《ど》の辺で、祈っておりましょうか」
侍は、壇の下から、護摩木を取り出して、積みながら
「烏帽子岳か――黒園山あたりで、ござりましょう」
侍は、兵道家牧仲太郎の高弟、与田兵助という人であった。
お由羅が、汗を拭いて、壇の下へ坐ると、兵助が、燃え尽そうとしている護摩木の中へ、新しい木を、一本一本、押頂いて、載せて行った。煙と、焔とが、又、勢いよく立ちかけた。
兵助は、気味の悪い、鈍い眼をした牛の頭を、両手で、静かに、火炉の中へ置いた。すぐ、毛の焼ける、たまらない臭が、部屋中へ充ちた。兵助は、口の中で、何か唱えながら、白檀と、蘇合香とを、牛頭の上から、撒きちらした。
右手に置いてあった、尖に、微かに、血のにじんでいる直刀を握って、牛の眼へ、ぴったりつけながら
「南無金剛忿怒尊」
と、叫んで、眼を突いた。白い液が、少し流れ出て来た。兵助は、左の眼も突き刺した。
「お待ちに、ござりまするが」
三度目の使が、襖外で、恐る恐る、声をかけた。斉彬は
「今――」
と、いったまま、紫檀《したん》の大机に凭《もた》れて、書物《かきもの》をしていた。そして、筆を走らせながら、
「今行く」
と、大きいが、物やさしい声をした。机の上にも、膝の周囲にも、書物と、書き損じの紙とが、散乱していた。
寛之助の臨終にも、同じ邸にいる父として、無論、行かねばならなかったが、今書いている「大船禁造解」と、「大船禁造令撤去建議案」とは、一日早く出来上れば、一日だけ、日本に利益と、幸福とを齎《もたら》して来るものであった。
斉彬の頭の中も、血の中も、大船を造ることを禁じるというような愚令を、早く、撤廃させなくてはならぬ、ということで、いっぱいになっていた。煙を上げて走る、鋼鉄で装われた舶来船で、表象されている異国の力と、知識とを得んがためには、同じ船を作るより外に
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