、安心させようとしながら、七瀬は、眼の底、頭の隅に残っている今の幻像が、誰かに似ていると考えた。だが、似ているその誰かが思い出せなかった。
抱き上げていて、風邪をひかしてはならぬと思ったので、寛之助が獅噛みついているまま、寝床の中へうつ伏せになって、毛布でくるんだ。
(あの物《もの》の怪《け》に、おそわれなさるのかしら)
と、考えたが、そんなことが、有るべきはずでなかったし、自分の心の迷いから、幻に見たことを、迂濶《うかつ》に、人には話すこともできなかった。然し、心の迷いにしては、余りに明瞭《はっきり》と、幻の顔が残りすぎていた。
微かに、足音がつづいて襖が開いた。方庵と、左源太と、奥小姓野村伝之丞とが、入って来た。三人とも、七瀬が、寛之助の熱を出させたように、睨みつけて、枕辺に坐ると
「何かに、おびえなされまして、急に、お目ざめになると、このお熱で――」
方庵が、額へ手を当てた。
七瀬が、身を引こうとすると
「こわいっ、いやっ――」
寛之助が、烈しく、身体を悶《もだ》えて、小さい拳をふるわせつつ、七瀬の襟をつかんだ。
「左源太が、打《ぶ》った斬《ぎ》ってやりましょう。左源太は、鬼でも、化物でも、打った斬りますぞ、若」
寛之助は、顔を埋めたまま、いやいやをした。
「余程、おびえていなさる」
と、伝之丞が呟いた。
「方庵、澄姫様の時と、同じであろうが」
「うむ、気から出る熱らしいが――」
方庵は、寛之助の脈を取って
「宗英も、判らんといいおったが――」
「七瀬――何んぞ、異状無かったか?」
七瀬は、黙って左源太を見た。異状すぎた異変を見たが、それを見たといっていいか――本当に見たのか、夢を見たのか? それさえ明瞭《はっきり》しないことを、いいもできなかった。
「異状は、ござりませぬが――」
と、いった時、さっき見た幻の顔が、島津家兵道の秘法を司《つかさど》っている牧仲太郎に似ているように思えた。ただ、牧は、もっと若かった。
(調伏――もしかしたなら)
七瀬は、こう感じると、冷たい手で、身体を逆撫でされたように、肌を寒くした。
「若、何を御覧なされますな。左源太が、追っ払ってくれましょう。どっちから?――あっちから?」
と、寛之助の顔をのぞき込むと、左源太の指している方を、ちらっと見て、うなずいた。左源太の指は、屏風の方を指していた。七瀬は、もう一度、頭の心から冷たくなってしまった。
「頼むえ」
お由羅が、こういって、一間《ひとま》へ入ってしまうと、手をついていた侍女達が、頭を上げて、二人が、襖のところへ、三人が、廊下の入口へ、ぴたりと坐った。そして、懐剣の紐を解いた。
お由羅が入ると、青い衣をつけた、三十余りの侍が、部屋の隅から、御辞儀をして
「用意、ととのうております」
部屋の真中に、六七尺幅の、三角形の護摩壇が設けられてあった。壇上三門と称されている、その隅々に香炉が置かれ、茅草を布いた坐るところの右に、百八本の護摩木――油浸しにした乳木と、段木とが置かれてあった。
お由羅が、壇の前へ跪《ひざまず》いて、暫く合掌してから、立上ると、その男が、黒い衣を、背後から着せた。お由羅は、壇上へ上って、蹲踞《そんきょ》座と呼ばれている坐り方――左の大指《おやゆび》を、右足の大指の上へ重ねる坐り方をして、炉の中へ、乳木と、段木とを、積み重ねた。そして、左手に金剛杵《こんごうしょ》を持ち、首へ珠数《じゅず》をかけてから、炉の中の灰を、右手の指で、額へ塗りつけた。
侍は、付木から、護摩木へ、火を移すと、お由羅は、白芥子と塩とを混じたものを、その上へふりかけた。小さく、はぜる音がした。火花がとんで、すぐ燃え上った。
侍は、一礼して退くと、索縄《さくじょう》と、刀とをもって、お由羅の坐っている壇の下、後方へ、同じように指を重ねて坐った。そして、低い声で
「東方|阿※[#「門<((企−止)/(人+人))」、第3水準1−93−48]《あしゅく》如来、金剛忿怒尊、赤身大力明王、穢迹《えじゃく》忿怒明王、月輪中に、結跏趺坐《けっかふざ》して、円光魏々、悪神を摧滅す。願わくば、閻※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《えんた》羅火、謨賀《ぼか》那火、邪悪心、邪悪人を燃尽して、円明の智火を、虚空界に充満せしめ給え」
と、祈り出した。
寛之助の病平癒の祈祷をするといって、この護摩壇を設けたのであったが、三角の鈞召火炉は、調伏の護摩壇であった。今、祈った仏は、呪詛の仏であった。
壇上の品々――人髪、人骨、人血、蛇皮、肝、鼠の毛、猪の糞、牛の頭、牛の血、丁香、白檀、蘇合香、毒薬などというものは、人を呪い殺すために、火に投じる生犠の形であった。
黒煙が、薄く立昇ると、お由羅は、次々に護摩木を投げ入れ、塩を振りかけ、
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