たと聞いたなら、正義の人々は一斉に立つであろう。わしは、それを信じて、死ぬ。然し、お前も共々に死んでは、仙波の家が断絶する。大義、親《しん》を滅す、とは、この事じゃ。小太――無駄死《むだじに》、犬死をしてはならんぞ。幸、七瀬が入り込んだとあれば、また、いかなる手段にて、敵を挫《くじ》く策略が生れて参るかも知れぬ。わしの死はお前が生きておってこそ光がある。お前が生きておれば、犬死にはならぬ。一旦の怨み、怒りで、必ず犬死してはならんぞ。眼前、父が殺されても、牧を刺す見込みが無いなら、斬破って逃げい。お前は若い。お前の脚ならば逃げられよう。そして、再挙して、わしの志を継ぐのだ。よいか。この教訓を忘れては、父の子でないぞ」
「はい」
「すぐに立とう、勘定を申しつけい」
「母上に、一度お逢いなされましては」
「たわけたことを申すな」
 八郎太は、床の間に立ててあった太刀を取って、目釘を調べ、中身を見て
「生れて初めて人を斬るか、斬られるか――こうして、じっと見ていると、この刃の表に、地獄の図が現れて来るように思える」
 刀を膝の上に立てて、刃の平をいつまでも眺めていた。
「お召しどすか」
「勘定をして、麻草鞋二足、弁当を二食分、水を竹筒に、少し沢山詰めておいてくれぬか」
「今時分から、何ちらへお出でどす」
「叡山へ参詣する。勘定を早く」
 小太郎は、室の隅で、鎖鉢巻、鎖|帷子《かたびら》、真綿入の下着を、二人分積み重ねて、風呂敷に包んでいた。
「思い残すこともない」
 八郎太は、刀を鞘に納めて
「小太、生れてはじめて、人を斬るが、老いてもわしの腕は見事じゃぞ。そうは思わぬか」
 と、笑った。

 根本中堂の、巨大な、荘厳な堂前に二人は額《ぬかず》いた。内陣には、ただ一つの宝燈が、またたいているだけで、漆黒な闇が、堂内に崇高に籠めていた。
 八郎太が、やがて、この宝燈の中へ消え去るべき自分だとも思ったり――或いは、もう一度この土の上で、同じように合掌して、歓喜に祈る自分の姿を想像したり――十死一生の勝負だとは信じていたが、自分の死ぬということが、少しも恐ろしくなく、胸を打つ程の想像も湧いて来なかった。自分の、包囲されて斬られるところを想像したが、人の斬られたのを見る程の感じもなかった。
 小太郎は、父の勤めを、暮しを、幼い時から見ていたので、下級武士が、手柄を立てて出世するというようなことは、考えられなかった。二十年でも、三十年でも、毎日同じことをしていなくてはならぬ運命だと、感じていた。父が、意地のため、自分のために、牧を斬って、それで仙波の名が名高くなったとて、何うなるのか?――益満程の才人が、腕前で、家中の人々から恐れられ、称められても、少しの出世も出来ないのに、牧を斬ったとて、何う出世が出来るか?――それよりも、牧を斬って、その手柄の代りに、母と父とを救い、妹と、自分とを、もう一度、二人の膝下へ集めたかった。苦労ばかりをして来た母に、皆の団欒を見せて喜ばしたかった。牧を討つのも、そのためになら――と、思った。
 名越左源太の子は九歳であっても、小太郎は、益満は、道を譲らなくてはならなかった。伊集院平の倅が、少し馬鹿であっても、二千石を継ぐのに十分であった。益満は、それに不平をもっていたが、小太郎は諦めていた。だが、斉彬公の愛には望みをもっていた。斉彬公の代になったら――自分の才も、腕も、きっと、人に認められるであろう。知行は昇らなくてもいいから、自分の器量を――と、思うと、斉彬を呪っている牧が、憎くなってきた。
 だが、父が、牧を討たずに死ぬ?――それも犬死ではないか。益満は、きっと遅れても来着するだろう。それを待って、牧を襲っても遅くはないのに――十人も警固の人数がいては、敵さないことは判り切っているのに――。
 小太郎の闘志は、少しも起って来なかった。父は独りで興奮しているが、あの手紙も、何も皆※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]で、この深い山の中は、この堂と同じように、沈黙と、荘厳とだけしかないのだ。牧なんか居るものか――というように思えた。
 八郎太が立上った。杉木立の下を、熊笹の中を、裾を捲り上げて登った。羽織の下に襷をかけて、鎖鉢巻を袖の中へ隠して
「油断するなよ」
 二人が耳を澄まし、呼吸を調えて、静かな足取で、小半町行くと、人影が木立の間に見えた。八郎太が佇んで、見届けようとした時、木立の間から、細径へ二人の侍が出て来て立止まった。
「見張」
 と、小太郎が囁いた。囁くと共に、拳も、胴も、膝頭も、ふるえ出した。押えても、ふるえが止まらなかった。腋の下に、冷たい汗が流れて来た。
(逆上してはいけない。怯けてはいけない)
 と、押えたが、何うしても止まらぬうちに、二人の前近くへ来た。一人が、径の真中で

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