いた。どんより曇った空であった。山の方には、雲が、薄黒く重なり合っていた。雨が降っているのだろう。

 島田の宿は、混合っていた。風呂の湯は、真白で、ぬるぬるしていたし、女中は、無愛想な返事をして、廊下を足荒く走った。
「へん、ってんだ」
[#ここから3字下げ]
雨は降る降る
大井川はとまる
飯盛りゃ、抱きたし
銭は無し
隣りの――
[#ここで字下げ終わり]
 と、唄って、七瀬と、綱手の部屋の隣りの旅人は、急に声を落して
[#ここから3字下げ]
娘で間に合わそ、か
てな、事なら、何うであろ
雨の十日も、降ればよい
[#ここで字下げ終わり]
 それから、大声になって
「とこ、鳶に、河童の屁」
 と、怒鳴った。
 七瀬と、綱手とは、お守袋を、床の間へ置いて、掌を合せて、夫と子供の無事と、自分ら二人の道中の無事を、祈っていた。
「やーあい、早くう、飯を持って来う」
[#ここから3字下げ]
腹がへっても、空腹《ひもじ》ゅう無い
大井の川衆にゃ、着物が無い
可哀や、朝顔お眼めが無い
俺の懐、金が無い
それは、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》だよ、案じるな
娘に惚れたで、お眼めが無い
[#ここで字下げ終わり]
「お待ちどお様」
 女中が、膳を運んで来た。
[#天から3字下げ]手前の面には、鼻が無い
 女中は、膳を置いたまま、物もいわないで行ってしまった。七瀬と、綱手とが、声を立てんばかりに笑った。
 廊下も、上も、下も、喚声と、足音とで、いっぱいであった。
「ええ――」
 番頭が、手をついて
「まことに申しかねますが、御覧の通りの混雑でござりまして――それに、ただ今、急に、お侍衆が七人、是非にと――何分の川止めで、野宿もなりませず――済みませんが、女子衆を一つ、相宿《あいやど》ということに、お願い致しとう存じますが――」
 番頭は、手を揉んで、御辞儀した。
「相宿とは?」
「この御座敷へ、もう一人、御女中衆をお泊め願いたいので、へい」
 母娘《おやこ》は、顔を見合せた。
「品のいい御老人で、つまり、お婆さんでござります。是非、何うか、へっ。お隣りの唄のお上手な方へも、御三人、お願い致すことになっておりますので、へい」
 隣りの旅人が
「やいやい番頭、六畳へ、四人も寝られるけえ」
「へへへ、子守唄を、一つ唄って頂きますと、よく眠ります」
「おうおう、洒落た文句をぬかすぜ」
 旅人は、立上って廊下へ出て来て、二人の部屋をのぞき込んだ。
「今晩は」
 二人は、返事をしないで、番頭に
「では、そのお方お一人だけ――」
「へいへい、決して、もう一人などとは申し上げません。有難う存じました。それで、お唄の旦那」
「いやな事いうな」
「済みませんが、お侍衆を、お二人、割込ませて頂きます」
「侍?」
「薩摩の方で、今日の喧嘩のつづきでさあ。後から後詰の方が、追々参られるそうで」
 七瀬と、綱手とは、身体中を固くして、不安に、胸を喘がせかけた。

 隣座敷へ入った侍が、湯へ行くらしく、廊下へ出ると同時に、七瀬が、障子を開けて、その前へ進んだ。侍は、立止まって、七瀬を見ると
「おお」
「ま――御無礼を致しました」
 七瀬は、一足、部屋の中へ引っ込んだ。
「お一人かな」
「いいえ、娘と、同行でございます」
「八郎太殿は」
「夫は、何か、名越様と、至急の打合せ致すことが起ったと、途中から江戸へ引返しまして、もう、追いつく時分でござりますが、何う致しましたやら」
「ははあ」
「丁度、幸の川止めで、明日一日降り続きましょうなら、この宿で落合えるかと存じております。貴下様は、御国許へでも?」
「うむ、国許へ参るが――小太郎殿も、父上と御同行か」
「はい」
「今日の昼間、ここで、果合があったとのこと、お聞きかの」
「何か、大勢で――」
「いや、一風呂浴びて――何れ、後刻、ゆっくり――妙なところで、逢いましたのう」
 侍は、振返って、そういいながら、微笑して、階段を降りて行った。
 七瀬と、綱手とは、人々から聞く、二人連の侍とは、確かに、池上と兵頭にちがいなかったし、その二人を援けたのは、きっと、益満であると考えた。そして、池上らと、益満とが、この辺にいるとすれば、八郎太父子も、この辺にちがいないと、考えられた。そして、そう考えてくると、夕方近くから降り出した雨が、自分等二人の涙のように思えた。雨さえ降らなかったなら、明日か、明後日は、八郎太に追っつけるのに――箱根で遅れ、ここで遅れ、天も、神も、仏も、何処までも、仙波の家だけは、助けてくれないもののように思えた。
 追手だの、伏勢だの、役人だの、いろいろの者が、自分達の周囲に潜んでいるようにも感じた。七瀬は、二人の侍を、敵党の者と知って、仙波父子二人が遅れて来ると、欺いたが、うまく欺きおおせるか
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