りかけると
「うぬっ」
 白く閃くものが、顔から、二三尺のところにあった。池上は立上った。
「弱ったな、土州」
「やっつけるか」
 と、人足が、叫んでいるのを、聞きながら、池上は、左右の追手へ
「輦台の上での勝負は珍しい。今度は、貴殿のところへ、源義経、八艘飛《はっそうと》び」
 と、微笑して、手摺へ、足をかけた。兵頭の輦台は、もう、七八間も行きすぎていた。
「池上っ」
 と、いう声と
「あとへ、あとへ」
 と、兵頭の叫んでいるのが聞えた。池上は、右手を振って
「一人でよい、一人でよい」
 と、叫んだ。
「小癪なっ」
 輦台の上から、一人が叫ぶと、川の中へ飛び込んだ。人足は、臍のところまでしか水に浸っていなかったから、浅いところであったが、水流は烈しかった。その侍は、二三間、よろめいて、ようよう、押流されて、立上った。丁度その時、池上に川へ落された侍も、立上った。二人は、刀を抜いて、川下から、迫って来た。
「いけねえ」
 人足が叫んだ。そして、二三尺進むと、乳の上まで水のある深いところへ入った。
「待てっ」
 一人が、水中から、池上を目がけて、刀を斬り下ろした刹那、一人の人足はびっくりして、肩から輦台を外した。と、同時に、池上は、輦台の上から、川上の方へ飛び込んでいた。
 兵頭は、じっと、川面を眺めていた。二人の追手は、胸まで来る水の中を、よちよちと、兵頭の方へ進んだ。三台の追手は、無言で、川中にいる二人の後方を、横を、兵頭の方へ迫りながら、川下へ浮んで出るべき池上の姿にも、気を配っていた。
 兵頭が、輦台の近くへ浮いて来た黒い影へ、身構えた時、池上が顔を出して、頭を振った。髪をつかんで水を切りながら
「わしは、歩いて行く」
 と、兵頭を見上げて
「歩けるのう」
 と、人足へ笑った。
「ええ」
「旦那っ、強うがすな」
 池上の輦台人足は、走るように近づいて来て
「お乗んなすって」
 と、いった。
「大勢かかりやがって、何んてざまだ。やーい、どら公、しっかりしろいっ」
 人足共は、小人数の方へ味方したかった。

 島田の側も、金谷の側も、磧は、人でいっぱいであった。
「強いな」
「兄弟、もう一度、行こうぜ、輦台二文って、このことだ」
「江戸へ戻って話の種だあ、九十六文、糞くらえだ」
「何うでえ、五人組は、手も、足も出ねえや。町内の五人組と同じで、お葬いか、お祝いの外にゃ、用の無え、よいよい野郎だ」
「二人の野郎あ、水の中で、刀をさし上げて、おかか、これ見や、さんまがとれた、って形だ。やあーい、さんま侍」
 八郎太と、小太郎とは、微笑しながら、川を眺めていると
「おおっ、加勢だっ」
「八人立で、こいつあ、早えや」
「棒を持っているぜ」
「馬鹿野郎、ありゃあ槍だ」
「こん畜生め、穂先の無え槍があるかい。第一、太すぎらあ」
「川ん中で、芋を洗うのじゃああるめえし、棒を持ってどうするんだ」
 小太郎が
「父上、あれは、休之助ではござりませぬか」
「ちがいない」
「一人で――」
 と、いった時、八人仕立の輦台は、川水を突っ切って、白い飛沫を、乳の上まで立てながら、ぐんぐん走っていた。
「小手をかざして見てあれば、ああら、怪しやな、敵か、味方か、別嬪か、じゃじゃん、ぼーん」
「人様が、お笑いになるぜ」
「味方の如く、火方《ひかた》の如く、これぞ、真田の計、どどん、どーん」
「丸で、南玉の講釈だの」
「あの爺よりうめえやっ、やや、棒槍をとり直したぜ」
「やった」
 益満の輦台が、追手へ近づくと、長い棒が一閃した。一人が、足を払われて、見えなくなった。何か、叫んでいるらしく、一人を水へ陥れたまま、益満の輦台は、追手の中を、中断して、池上の方へ近づいた。もう、金谷の磧へ、僅かしかなかった。水の中で閃く刀、それを払った棒。追手を、抜いて、二人と一つになると、すぐ、益満の輦台だけが川中に止まって、二人は、どんどん磧の方へ、上って行った。追手の五人は、益満一人に、拒まれて、何か争っているらしく、動かなかった。
 二人の人足が、益満のために、川へ陥った一人を探すため、川下へ急いでいた。時々、頭が、水から出ようとしては没し、没しては出て、川下へ流されていた。
 池上と、兵頭とは、磧へ上ってしまった。磧の群集が二つに分れた。役人らしいのが、二人に何か聞いて、二人を囲んで、だらだら道を登って行った。
 益満は、一つの輦台が、右手へ抜けようとするのを、棒を延して押えているらしく、その輦台が止まった。
「益満め、舌の先と、早業とで、上手に押えたと見えるな」
 と、八郎太が微笑した。そして
「この騒ぎにまぎれて渡ろう。何ういう不慮の事が起きんでもなし、水嵩も増すようであるし――」
 小太郎は、川会所へ行った。川札は
[#天から3字下げ]乳下水、百十二文
 と、代って
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