った。益満の、着物から、頸筋から臭う、汗と、体臭とが好もしく、綱手に感じられた。だが、綱手は
「歩きます」
と、いった。然し、益満が、綱手の腰へ、後ろ手に手をかけて、引寄せると、よろめいて、もたれかかった。そして、一寸、身体を反らしたが、そのまま、背へのせられると、思わず、手を、益満の肩へかけて、胸を、脚を、益満の身体へ押しつけた。そして、真赤になった。
「いいえ、歩きます」
綱手は、足を開くのが恥かしかった。だが、離れるのも厭であった。このまま、じっと抱きしめて欲しかった。綱手は、自分の暖かみと、益満の暖かみとが一つに融け合うのを感じると、すぐ、次の瞬間、二人の肌も融け合い、二人の血が一つになって、流れているような気がした。
(誰も居なければ、よいのに――)
と、思った。だが、すぐ、右手で益満の肩を押して
「歩けます」
と、強くいった。
「では――」
益満は、曲げていた身体を延し、綱手の腰から手を放した。綱手は
(放さないで、もっと、強く、長く、抱き締めていてくれたら――)
と、思った。
「もう、すぐでございますから――駕屋、そろそろと、やってくれ」
益満は、先に立った。綱手は
(益満様に、恋をしたのであろうか――隣同士の家にいる内は、ただ好きな人であったが)
と、思うと、母に顔を見られるのが、気まり悪くなってきた。益満が、いつか
「娘時分と申すものは、手当り次第に、間近い男に惚れるからのう」
と、小太郎と、話していたのを思い出して、胸を打たせた。
(益満様なら、不足のない)
と、思うと、同じ家中で、許嫁などとなっている人々のことを思い出して、八郎太が
「益満はよいが、品行が悪いし、家柄がちがうし――」
と、いった言葉が、恨めしくなってきた。と、同時に、益満が
「御家のためには操をすてて」
と、いったのも、恨めしくなってきた。
「小太郎にお逢いなされて?」
七瀬が聞いた。
「関所の刻限がきれて――然し、明日、もう一追い仕りましょう」
さっきの茶店は、店を閉じてしまっていた。角を曲ると、宿の前に人だかりしているのが見えた。
宿の表は、三つ、四つの提灯の、ほのかな灯の中に、大勢の人影がうごめいていた。それから、家の中には甲高い叫びと、荒い足音と――表の人々は、口々に、騒ぎ合っていた。益満が、その隣りの旅舎に駕をつけると、隣りの騒ぎを見物するため、軒下に立ったり、往来へ出て見たりしていた宿の女中が、番頭が、周章てて、駈け寄ってきた。
「お疲れ様で」
とか
「先刻のお方様で」
とか、という御世辞を聞き流して、奥まった部屋へ入った。
表の人声と、ざわめきとは、未だ止まなかった。綱手と、七瀬とは、不安そうに、宿の人々が、部屋から出てしまうと、七瀬が
「まあ、嬉しいやら、びっくりやら――何んと思うて、あの、下僕《しもべ》の真似など?」
「隣りの騒ぎを御存じか」
「御存じか、とは?――騒いでいるのは、判っておりますが――」
「わしの手下の者が捕縛されたのじゃ、小母御。関所の刻限に一寸遅れたばかりに、小太郎にも逢えず――然し、これが、世の中の常で、一つの仕事を成就させるには、こうした蹉跌《さてつ》が、いろいろと起る。綱手、そいつにめげてはならぬ」
益満は、脚絆を畳んでいる綱手を見ながら、茶を飲んで
「国乱れて、忠臣現れ、家貧しゅうして孝子出づ。苦難多くして現れ出づ、男子の真骨頂。いよいよ益満が、軽輩を背負って立つ時が参った」
益満が、三尺余りの長刀を撫して、柱に凭れて腕組しながら、こう云って笑っているのを見ると、七瀬も、綱手も、何んとなく、心丈夫であり、頼もしく思えた。綱手は
(益満様なら、夫にでも――)
と、心の中で囁きながら、さっき山の中で、生れて初めて、ぴったり、肉に、肌に、血に触れ合った男の暖かさを思い出した。そして、益満を、そっと盗み見した。
「討手は、小太郎に、もう追いつく時分でござりましょうか」
「追いつくかもしれぬ。追いつけぬかもしれぬ。然し、何れにもせよ、小太も、相当に、心得はある。やみやみ、五人、七人を対手にして、斬られる奴でもない。それに、こつこつ石の如き親爺がついておる。これが、一見頑固無双に見えていて、なかなか変通なところがある。本街道を避けて、裏を行けば、大井川までは、首尾よく参ろう。ここを無事に通れば、京までは、先ず無事――」
こういっている時、旅舎の番頭が
「明日、早朝お立ちでございましょうか。御弁当の御用意、それから、関所切手――なかなか、きびしゅうござりますゆえ、もし、御都合で、お持ちがなければ、手前共で、何んとか御便宜を――」
といって来た。
「切手は、持っております。御弁当と、それから、達者な駕人足とを、御頼み申します。時刻は、六つ前――」
「かしこまりま
前へ
次へ
全260ページ中64ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング