駕をたたいた。
「降りて走ろう。走れば、間に合うであろう」
 益満は、駕を出て、金を渡しながら聞いた。
「ええ、それなら、十分に。旦那、こう多分に頂かなくても、喋りゃ致しませんよ――」
「貴公達は、賽ノ河原辺で宿をとるがよい。某は関所を、今日のうちに通らねばならぬ。それから、もし、仙波の妻子が参ったなら、某は仙波へ、急を告げに参ったが、明朝すぐに引返すからと、申し伝えておいてもらいたい」
 口早に、こういうと、益満は、駕屋の礼を後に、急坂を走り降りて行った。
 雲が少しずつ暗くなりかけて、水色の沈鬱な湖面は、すっかり夜の色らしくなりかけてきた。
 箱根の関所は、冬も、夏も、暮六つに、門を閉じる慣わしであった。益満は、一足早く旅へ出た仙波父子へ、討手のかかっていることを告げてやりたいと、湖を右に、杉木立の深い、夕靄の薄くかかった中を、小走りに急いだ。
 石垣、その上に、その横に連なっている柵、高札場が見えた。門は、まだ開かれていた。
 面番所前の飾り武器、周章てて門を出て来る旅人。
(間に合った)
 と、益満が思った瞬間、二人の足軽が、急ぎ足に門へ近づくと、扉へ手をかけた。
「待てっ」
 と、益満が叫んだ。だが、門は、左右から、二人の足軽の手で閉りかけた。
「急用だっ」
 益満が門へ着いた瞬間、門が閉まった。

「急用じゃ。済まぬが、開けてもらいたい」
 益満は、柵の間から、足軽へ頼んだ。足軽は、門を押えたままで
「公用か」
「公用ではないが――」
 足軽は、黙って、閂を入れた。
「命にかかわる事じゃから」
 足軽は、返事もしないで、錠をかけ、鍵を持って去ってしまった。益満は、すぐ踵《きびす》を返した。
 関所手前の旅宿は二軒しか無かった。二軒とも、小さくて汚かった。軒下の常夜燈の灯も、薄暗くて、番頭も、女中も、無愛想で、足早に近づく益満へ
「お泊りかえ」
 と、眠《ね》むそうにいっただけであった。
「今しがた、女が二人、着かなんだか」
 女中は、首を横に振った。
「三人連れで、一人は侍、二人は商人風の者は?」
 女中は、番頭を振返った。
「その方なら、ただ今、お着きになりました」
 番頭は、帳場の中で、火鉢を抱いたままで答えた。
「そうか」
「お連衆でございますか」
「いいや」
 益満は、それだけ聞いて、表へ出た。
「ちょっ、狼が出るぞ」
 と、番頭が、呟いた。益満は、その隣りの表から
「女連れ二人が泊っておらんか」
「いいえ」
「十八九の美しいのと、四十がらみの」
「いいえ、お泊りじゃござりません」
 女中は、じろじろと、益満を眺め廻していた。
(時刻から申せば、二人は、もうこの辺へ着かなくてはならんのに――途中で、悪雲助共に逢うたか、討手の奴等に手でも負わされたか――今夜小太に逢えぬとすれば、せめて、二人に逢いたいが――)
「旦那、お泊りじゃござんせんか」
「少し、尋ね人があって――」
 益満は、そう答えて、街道へ出た。そして、すっかり暗くなった湖畔を、提灯も無く、歩き出した。角の茶店の仕舞いかけているところを折れて、急坂にかかろうとすると、提灯の灯が見えた。
(あれかも知れん)
 と、足を早めて、提灯を見ると、それは駕屋のものでなく、定紋入りの提灯であった。益満は、素早く杉木立の中へ入った。人声が近づいた。提灯のほのかな灯でみると、それは、大久保家中の人々らしく
「ようよう着いた。慣れた道じゃが、疲れるのう」
「薩摩っ坊め、下らぬごたごた騒ぎをしやがって、彼女《あれ》との約束が、ふいになってしもうた」
「それは、御愁傷様、拙者には又、箱根町に馴染があっての――」
「又、色話か」
「話は、これに限る。貴公の、斬口の、鑑定は、女と手を切った時にたのむ」
「然し、見事に斬ってあったのう。薩州の示現流――」
 人々は、話しながら、通ってしまった。
(もう、小田原から役人が来た。宿にいる三人は、一日、二日取調べられるであろう――いいや、この身も危い。山越に、今夜のうち、三島まで、のすか)
 と、思った時、小さい提灯が一つ、ゆっくり、坂途《さかみち》を降りて来た。

 提灯の、微かな灯影の中にでも、綱手の顔は、白く浮き出していた。益満は、ずかずかと、近づいて
「お嬢様、お出迎えに――」
 と、いって、びっくりして、益満の顔を見た綱手の眼へ、合図をしながら
「心配致しました。余り、お遅いので。途中で斬り合がございましたそうで、たゞ今、役人が、その侍を取調べておりますが、うっかりしたことは出来ませぬ」
 と、口早に、小腰をかがめて、七瀬と、二人にいった。
「ほんに――」
 二人は、益満の肚がわかった。
「駕屋、済まんのう」
「いいえ」
「さあ、お嬢様、手前、そこまで背負って参りましょう」
「いいえ」
 益満は、背を出した。綱手は、赤くな
前へ 次へ
全260ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング