様は、先刻、お下りになりました」
 と、いった。侍は、二人の顔を見て、じっと睨んで
「仙波の家内か」
「そこの死体に、一木様が、何かお書付けおきなされました。あの、お疵は、いかがしてお受けになりましたか、誰から――」
「左様のこと、聞かんでよい」
 侍は、ずかずかと、死体の方へ歩いて行った。
「仙波に、お逢いなされましたか」
「煩いっ、ぶった斬るぞ」
 振返って睨みつけた。

 七瀬と綱手は駕を急がせた。
「ああれ、又だ」
 と、先棒が叫んだ。と、同時に、後から
「おっかねえ。睨んでるぜ」
 七瀬も、綱手も、道の傍に二人の侍が立っていて、その真中に、一人がうずくまっているのを見た。二人とも、凄い眼をして、駕の近づくのを、じっと見ていた。駕が、二三間のところまで行くと
「御無体ながら――」
 と、一人が叫んで、駕の中を見た。七瀬は、はっとした。矢張り、同じ家中で、見た顔の一人であった。と、同時に、その侍が
「待て、駕、待てっ」
 と、道の真中へ出て、両手を拡げた。
「待ちやすっ」
 四人の駕屋は、顔色を変えた。
「降りろ」
 七瀬も、綱手も、懐剣へ手をかけた。駕屋が
「旦那、手荒いことは――」
 駕屋は、駕が血で汚れるのを恐れて、二人が駕を出るが早いか、木立のところへ運んでしまった。
「駕屋、動くことならんぞ」
 と、一人が、刀を抜いた。草の上にしゃがんでいる侍が、二人を見た。
「御用は?」
 七瀬は、蒼白になって――だが、静かに聞いた。
「御用? 仙波の家内などに用はない」
「御用もないのに、何故、降りよと、仰せられました」
「何?」
 侍は、七瀬を睨みつけておいて
「駕屋っ、この手負を、湯本まで運んで参れ」
「これは、御無体な、この駕は、妾が――」
 侍は、七瀬にはかまわないで
「愚図愚図致すと、斬り捨てるぞ」
 と、駕屋へ怒鳴った。
「へい」
 駕屋は、顔を見合せて
「済みませんが」
 と、七瀬へ、腰を曲げた。侍が、棒鼻へ手をかけて
「早くせい」
「へいっ」
 駕屋が、駕を上げた。
「お侍ちなされませ、女と侮って、薩摩隼人ともあろうものが、人の物を強奪して――」
「強奪? 無礼者」
 一人は、駕から手を放すと、七瀬の胸を突いた。七瀬はよろめいた。
「何をされます」
 甲高く叫んだ。綱手が
「お母様」
 と、叫んで、七瀬の前へ立った。ぶるぶる顫える脣をしめて、侍を睨んだ。
「旦那、手荒いことは」
 駕屋が、侍を止めた。
「素浪人分際の女として、無礼呼ばわり――」
「これが無礼でなくて――」
 と、七瀬が、ふるえ声でいった時、一梃の駕が、手負のところへ行き、一人が、手負を抱いて駕の中へ入れた。綱手は、母を片手で押えながら
「駕は、二梃共、御入用?」
 侍は、落ちついた綱手の態度と、その美しさと、物柔かさとに、挫けながら
「一梃でよい――無礼な」
 と、呟いて、駕の方へ去った。七瀬は、身体を顫わせていた。
「お母様、お駕へ。妾は、歩いて参ります」
 七瀬は、涙をためて、侍の方を睨んでいた。
「あれっ、彼処《あそこ》に一人死んでいる」
 と、駕屋は指さして、低く云った。

 遥かに、芦の湖が展開して来た。沈鬱な色をして、低い灰色の雲を写していた。
「益満氏、益満氏ではないか」
 後方から、絶叫した者があった。益満が振向くと、右手に刀を提げた三人の浪人が、走って来た。益満が、駕の中から、右手を挙げた。浪人が、近づいて
「奈良崎氏と、羽鳥とが、やられた」
「刀を拭いて――関所が、近い」
 三人は、刀を拭いて納めた。
「ここへ来る道で、一人は膝を切られ、二人は無疵で――」
「逢うた。お互に、顔を知らぬし、怪しいとは存じたが、睨み合ったままで、擦れちがった」
「女二人に、一人は四十近い、一人は十八九の」
「それとは、死体の転がっていた辺で――」
 益満は、頷いて
「何うじゃ、真剣の味は?」
「駕屋、咽喉が乾いたが、その水を」
 一人が、駕の後方に、下げてある竹筒の水を指した。
「さあ、お飲みなすって。大層、血が――」
「少しかすられた」
 三人は、そういわれて、自分達の疵の痛みを感じてきた。交る交る竹筒の水を飲んで、着物を直しながら
「凄かったのう、あの示現流の、奈良崎を斬った男の腕は」
「一木か、あれは出来る」
 と、益満は答えて
「駕屋、もう六つ近いであろう」
「へえ、空の色から申しますと、もうすぐでござります」
 駕屋は顔色を変えていた。
「関所の時刻に間に合うか」
 駕は、急坂の石敷道へかかっていた。駕屋は、駕を、真横担いにして、一足ずつ降りかけた。
「さあ、但州、何うだの」
「さあ、急いだら、然し、何うかのう」
 益満は、手早く、金を取出して
「降りる。駄賃は、町までのを、これは、別に口止料」
 と、いって、金を差出して、片手で
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