してござります」
 番頭が立去ると、早立の客達は、風呂へ入って寝るらしく、隣りも、下も、もう、蒲団を布く音を響かせてきた。
 七瀬は、小太郎のことを、八郎太のことを、綱手は、益満のことを、それから、二人で暮している空想を――益満は、敵党に根本的打撃を与える方法を――お互に、それぞれ考えながら、廊下を、轟かせて蒲団を運んで来る女中達の足音を、黙然と聞いていた。

  刺客行

 大井川の川会所《かわかいしよ》の軒下には、薄汚れのした木の札がかかっていて
[#天から3字下げ]帯上通水《おびうえとおしみず》、九十五文
 と、書いてあった。今日の川水は、渡し人足の帯まで浸すからであった。汚い畳敷の上へ台を置いて、三人の会所役人が、横柄に、旅人の出す金と、川札とを引換にした。その横、暗い奥の方、会所前の茶店の辺には、川人足が群れていて、旅人の川札を眺めては
「荷物は、何れでえ」
 とか
「甲州。われの番だに、何を、ぞめぞめこいてやがる」
 とか、怒鳴っていた。
 大井川を渡る賃金は、水|嵩《かさ》によってちがっていて、乳下水、帯上通水、帯通水、帯下水、股通水、股下通水、膝上通水、膝通水と分れていた。そして、一番水の無い、膝通水の時の賃金は、人足一人が四十文で、乳下水に少し水嵩が増すと、川止めになるのであった。
 水嵩が増しそうな気配だと云うので、旅人達は急いでいた。川会所の前には、そういう人々でいっぱいだった。役人が
「輦台《れんだい》二梃」
 と、叫んで、木札で、台を叩いた。五六人の人足が
「おーい」
 と、元気よく答えて、だらだらの砂道、草叢の中に置いてある平輦台の方へ走って行った。一人の人足が、群集の前に、編笠を冠って立っている二人の侍に
「あちらへ」
 と、御辞儀した。
「急ぐぞ、人足」
 そういって、侍は、すぐ、その人足の後につづいて、河原の方へ降りて行った。その会所の前の茶店から、一人の若侍が立上って、二人の侍の後姿を見ながら
「父上、あれは、池上氏と、兵頭氏では」
 と、振向いた。
「似ている、そうらしい」
「見届けましょうか。何んなら、同行しても――」
「さ――」
 小太郎が、一足出ようとした時、勢いのいい五梃の駕が、川会所前の群集の中へ、割込んで来て、駕の中から
「輦台、五梃、急ぐぞっ」
 と、怒鳴る声がした。そして、垂れが上ると、一人の侍が、素早く、駕の外へ出た。八郎太は、歩きかけた小太郎に
「待て」
 と、声をかけた時、小太郎は、その侍の顔を見、次々の駕から出て来る侍を見て、急いで茶店の中へ入って、腰かけた。そして、二人は、街道を背にして、低い声で
「四ツ本の下の奴でないか」
「はい」
 二人は、五人の侍に見つからぬように、顔を隠して
「急ぐ模様だが――」
 と、云った時、一人の侍が、川の方を見て
「居る、あの二人が――相違ない」
 と、四人の者に、川を指さして振向いた。
「人足、急ぐぞっ」
 一人は、刀を押えて、磧《かわら》の方へ小走りに歩み出した。
「今|渉《わた》るところだ」
「川の中で追っつけよう」
 人々は、群集の中で、声高に、こう叫んだ。旅人達は、五人が、前の二人の連衆だと思っていたが、仙波父子は
「討手だ」
 と、信じた。
「小太、油断がならぬ」
 八郎太は、手早く編笠をきた。

 池上と、兵頭との輦台は、川の中央まで出ていた。二人とも、刀を輦台へ凭せかけて、腕組をしていた。
 川人足は、行きちがう朋輩に声をかけながら、臍の辺に、冷たい秋の川水の小波を、白く立てつつ、静かに、平に、歩いていた。
 人足の肩に跨がり、頭に縋りついている旅人達は、着物の水へ届きそうになるのを気づかいつつ、子供の時、父の肩車に乗って以来、何十年目かの肩車に、不安を感じていた。
 その穏かな川を渉る人々の中を、五台の輦台が、声をかけつつ、川水を乱し立てて、突進した。
「ほいっ、ほいっ」
 と、いう懸声の間々に
「頼むっ、頼むっ」
 と、肩車で渉って行く、渉って来る人足に、注意しながら、輦台は突進して行った。その上に乗っている人々は、刀を押えて、誰も皆、前方を睨みつけるように見て
「急げっ、急げっ」
 と――中の一人は、刀の鐺《こじり》で、そういいつつ、こつこつ、川人足の肩をたたいていた。
 仙波父子は、茶屋の横へ廻って、松の影の下の小高い草叢の中から、この七台の輦台を眺めている。
「五人では討てまい」
 八郎太が、呟いた。
「助けに参りましょうか」
「求めて対手にすべきではない。よし、二人が殺《や》られようと、大事の前の小事じゃ。わしが指図するまで、手出しはならぬ」
「益満は、何うしておりましょう」
「あれも、一代の才物じゃが、世上の物事は、そうそうあれの考え通りに行くものでもない。日取りからいえば、もう、追っつく時分じゃが、
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