「急ぐ」
「便所なら、こっちにも――」
「馬鹿っ」
 益満は、笑いながら出て行った。深雪には何の事だかわからなかった。

 富士春は一人きりだった。益満が入って行くと、惣菜をお裾分けに来たらしい女房が、周章てて勝手から出て行った。富士春は、お惣菜の小鉢を、鼠入らずへ入れて、益満へ
「お見限りだねえ」
「何を――こっちのいう科白《せりふ》だ。近頃は、巾着切を、くわえ込んでいるくせに――」
 富士春は、下から、媚びた目で、益満を見上げて
「ま、お当て遊ばせな」
 と、座蒲団を押しつけた。
「貴様でも、遊ばせ言葉を存じておるか」
「妾は、元、京育ち、父は公卿にて一条の」
「大宮辺に住居して、夜な夜な、人の袖を引く」
「へんっ、てんだ。何うせ、そうでございましょうよ。柄にもない、お嬢さんなんかと、くっついて」
 富士春は、益満の眼へ、笑いかけつつ、茶をついだ。
「そのお嬢さんに、小藤次が執心らしいが、師匠、一つ骨を折って、奥勤めへでものう。父は浪人になるし、南玉の許に食客《いそうろう》をしていては――」
「本当にね、お可哀そうに――」
「などと、悲しそうな面あするな。内心、とって食おう、と、思っているくせに――」
「やだよ、益公。与太な科白も、ちょいちょい抜かせ。意地と、色とをごっちゃにして、売っている、泥溝板長屋の富士春を知らねえか」
「その啖呵あ、三度聞いた」
「じゃあ、新口だよ。いいかい、剣術あお下手で、お三味線はお上手てんだ、益公。お馬もお下手で、胡麻摺りゃお上手。ぴーんと、痛いだろう」
「常磐津よりは、その方が上手じゃ。流石、巾着切のお仕込みだけはある」
「外聞の悪い、巾着切、巾着切って」
 と、云って、女は、声を低くして
「お前さんにゃあ敵わないが、知れんようにしておくんな、人気にかかわるからね」
「心得た――その代り、二階へ一寸――」
 富士春は、ちらっと、益満を見て
「本心かえ」
 と、険しい眼をした。
「一緒に、というんじやあねえ、わし一人で――その代り、暫く、誰も、来んように」
 富士春は、微笑して
「屋根伝いに、お嬢さんが――」
「まあず、その辺」
 富士春は、手を延して、益満を捻った。
「たたたった――まさか、二階に、庄公が鎮座してはおるまいの」
「はいはい、亭主《やど》は、人様が、お寝静まりになりましてから、こっそり、忍んで参りまする」
 益満は、立上って、押入を開けた。狭い、急な階段があった。
「今夜は、狼共、来るかの」
「さあ、一人、二人は――お由羅さんが、お帰りなので、町内中が、見張に出ているらしいから」
「ほほう、お由羅様が、お帰り?」
「あのお嬢さんを、奥勤めさせるなど――何うして、あちきのところへ、あずけないかしら?」
 益満は、階段《はしごだん》の二段目から、首を延して
「庄吉は、色男だからのう、危い」
 と、云って、すぐ、階段を、軋らせて登ってしまった。

「お由羅さん、か」
 富士春は呟いた。同じ、師匠のところへ、通って居たこともあったが、物憶えの悪い、お由羅であった。そして、富士春は、その反対であったが、反対であったがために、富士春は師匠となり、お由羅は、いつの間にか、お部屋様になった。富士春は、勝手の小女に
「早く、おしよ」
 と、夕食を促した。
 益満は、暮れてしまった大屋根へ、出た。周囲の長屋の人々は、悉く、里戻りのお由羅を見るため、家を空にして出ているらしく、何んの物音もしなかった。
 屋根から往来を見下ろすと、町を警固の若い衆が、群集を、軒下へ押しつけ、通行人を、せき立てて、手を振ったり、叫んだり、走ったりしていた。
 提灯を片手に、腰に手鉤《てかぎ》を、或る人は棒をもって、後から出る手当の祝儀を、何う使おうかと、微笑したり、長屋の小娘に
「お前も、あやかるんだぞ」
 と、云ったり、その間々に
「出ちゃあいけねえ」
 とか
「早く通れっ」
 とか、怒鳴ったり――小藤次の家は、幕を引き廻して、板の間に、金屏風を、軒下の左右には、家の者、町内の顔利きが、提灯を股にして、ずらりと、居流れていた。
 益満は、ぴったりと、屋根の上へ、腹を当て、這い延びて、短銃《たんづっ》を、棟瓦の上から、小藤次の家の方へ、覘《ねら》いをつけていた。片眼を閉じて、筒先を上げ下げしつつ、軒下の中央へ、駕が止まって、お由羅の立出るのを、一発にと、的を定めていた。
 駕が近づいて来たらしく、人々のどよめきが、渡って来ると共に、軒下の人々が、一斉に首を延し、若い衆の背を押して、雪崩れかかった。そして、若い衆に制されて、爪立ちになって覗くと――真先に、士分一人、挟箱《はさみばこ》一人、続いて侍女二人、すぐ駕になって、駕脇に、四人の女、後ろに胡床《こしょう》、草履取り、小者、広敷番、侍女数人――と、つづいて来た。
 軒
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