てのは、お嬢さん――」
 南玉は、両手の人差指で、鼻を押上げ、小指で、口を大きく開いて
「ももんがあ」
「あら。ももんがあが、お厠《しも》から出ますの」
「そうそう、三縁山の丑三つの鐘が、陰にこもって、ぐぉーんーと、鳴ると――」
「成る程、拙《まず》い講釈師だの」
「便所の蔭から――」
「ちょいと、ちょいと」
 南玉は、手で額を叩いて
「出来ましたっ、夜鷹の仮声《こわいろ》は天下一品」
 と、いった時、
「物申《ものも》う、講釈師、桃牛舎南玉の住居はここかの」
 南玉が
「へい」
 と、いった途端、益満が
「真木か」
「益満」
 格子を開けて、着流しの浪人が入って来た。そして、土間に立っていると
「南玉、酒を買って来い」
 銀子を渡して、益満が
「こちらへ」
 と、いった。南玉は、勝手口から出て行った。浪人が、深雪に挨拶してしまうと、益満が、金包を出して
「支度金」
「いや、忝ない」
 浪人は、膝の上へ手をついて御叩頭した。
「一手五人として、三手――成るべくならば、姿をかえて、悟られぬようにお願いしたい。一手から一人ずつ、物見兼連絡掛として、某と、各々との間におって、事があれば知らせ合うこと――誰も同じことで、某も覚えがあるが、苦しい時には、刀の中身まで替えたもの。もし、そういう仁があれば、是非、味のよい物を求めてもらいたい。仲間の喧嘩、口論は勿論のこと、道中、みだりに人と、いさかってはならぬ。旅宿《やど》での、大酒、高声、放談も慎んで頂きたい」
 浪人は、一々、うなずいていた。
「出立は、明後日?」
「左様、明後日ときめて、万事、某の指図をお待ち願いたい」
「では、支度に忙がしいゆえ、これにて」
 浪人は、手をついて
「一同の人は、何処に。貴公のところ?」
「揃うておりまする」
 浪人は、そう云って、腰を上げた。
「では、明後日早朝として、某は神奈川でお待ち申そう」
 益満も、見送りに立上った。

 益満は、座につくと
「深雪」
 と、正面から、顔をじっと見た。
「わしは、予ての話の如く、明後日の早朝、牧仲太郎を討取るため、今の浪人共を連れて上方へ立つ」
 深雪は、膝を凝視めて、鼓動してくる心臓を押えていた。
「人を討つに、己のみが助かろうとは思わぬから、或いは、これが今生《こんじょう》の別れかも知れぬ。父に別れ、母に別れ、小太に別れ――今又、わしと別れて心細いであろうが、かかる運命になった上は是非もない――ただ――如何なる苦しみ、悲しみが押寄せようとも、必ず、勇気を失うなよ。じっと、耐えて、その苦しさ、悲しさを凝視めてみるのじゃ。それに、巻き込まれず、打挫《うちくじ》かれずに、正面から引組んで味わってみるのじゃ。そうすると、何故、自分は、こんなに、苦しめられるのか? 悲しまされるのか、だんだんわかってくる。誰が苦しめるのか? 何んのために、悲しまされるのか? それを、よく考えて、その苦しませる奴と戦う――ここから、その悪い運が、明るく開けてくる。よいか」
 深雪は、頷いた。
「それで、小父上から、あずかっておいたが――」
 益満は、袋に入った短刀を取出した。
「小藤次が惚れておるのを幸として、お由羅の許へ、奉公に出るということ――もし、この話が成就したなら、これを、父と思って肌身離すな。奥女中は、片輪者の集まりゆえ、いじめることもあろうし、叱ることもあろうが、お家のため、父のために、十分に耐えて――隙があらば、由羅を刺し殺せ。己を突くか、由羅を突くか、二つに一つの短刀じゃ。その外に使うことはならぬ。又――朱に交れば赤くなる、と申すが、泥水に咲いても、清い蓮の花は清く咲く。決して、奥の悪風に染むなよ」
 深雪は、身体をかたくして聞いていた。一家中の者が、それぞれ身を捨ててかかっているのに、自分一人だけは、南玉のおどけた生活の中にいたので、日夜、そのために苦しんでいたが、益満の言葉で、頭が軽くなった。
 だが、同時に、齢端《としは》の行かぬ、世間知らずの娘が、そんな――由羅を刺すというような大任ができるだろうかと、心配になった。
「人間というものは、何んなことがあっても、いつも、明るい心さえもっておったなら、道は、自然に開けてくる。明るい心とは、勇気のあること、苦しさに負けぬこと――よいか」
 と、云った時、南玉が、ことこと戻って来た。深雪は、短刀を押頂いて、懐中した。
「わしは、これから、富士春の許へ、一寸、行って来る」
 益満は、刀を持って、立上りながら、勝手で、七輪への、焚木を、ぷつぷつ折っている南玉へ
「客は、戻ったぞ」
「しめたっ」
「へべれけになって、又、席を抜くなよ」
「腰を抜く」
 南玉は、こういって、障子の破れ穴から、中をのぞいて、益満が出て行きそうなので
「一杯やってから」
 と、徳利を提げて出て来た。

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