ん。然し、国許には、御家老の島津壱岐殿、二階堂、赤山、山一、高崎、近藤と、傑物が揃いも、揃って、斉彬公方じゃ。この人々と、連絡すれば、平や、将曹如き、へろへろ家老を倒すに、訳は無い」
「調所は?」
「調所は――このへろへろを除いてからでよい。よし、此奴が元兇としても、大阪におっては、大したことも仕出かしえまい。それで、小父上、拙者は、浪人を集めて、牧を討ちに参るから――」
「牧は、わしが討取るつもりじゃ」
「小太郎と二人で?」
「うむ」
「牧には、少くも、十人の護衛がおりまするぞ」
「成否は問わぬ、意地、武門武士の面目として」
「では、力を添えて下されますか」
「わしも、お前がおると、力強いで」
「それから、綱手は、調所のところへ、あの又蔵を、国許の同志への使に立てたなら?」
「あれは、忠義者じゃし、心も利いておる」
「では、小父上は、今からでも、立ちますかの」
「ここへ泊って、明日、早々にでも――」
「七瀬殿は?」
「もう、立ったであろう」
「この雨の中を――」
「可哀想じゃが――」
「初旅に――」
「お前は、いつ立つ」
「左様――浪士を集めて、敵党の手配りを調べて、三日が程はかかりましょうか」
「深雪は、その間」
「南玉と申す講釈師に、あずけましょう」
「講釈師、あの、ひょうげた?」
「あれで、なかなかの奴で、肚ができておりまする。安心してよろしゅうござりましょう」
と、いって、話が終ると
「そこな女中、この美少年が、お主《のし》に惚れて、今夜、泊るとよう」
「ああれ、また、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》ばっかり――」
八郎太が、苦笑して
「益満」
「あははは、では、拙者は、これにて――小太、上方で、逢おう」
「うむ」
「どうれ、雨の夜、でも踊るか」
と、いって、益満は、裾を端折った。
「途中、気をつけて」
「闇試合は、女中と、小太に任せよう」
「あれ又、あんなことを――」
と、女中は、益満を睨んで、すぐ、その眼で、小太郎に媚を送った。
七瀬等三人は、秋雨の夜道を、徹宵で歩いて行った。品川の旅宿の人々は、この雨の中を、この時刻から、西へ行く女連れの三人に、不審さを感じながら――それでも
「お泊りじゃござんせんか」
と、声だけはかけた。軒下づたいに妓楼を素見《ひやか》して歩いている人々は、綱手をのぞいて
「よう、別嬪」
と、叫んだ。三人は、この闇の雨の道を歩きたくはなかったが、江戸近くで泊るということは、夫に対して出来なかった。夫に対し、父に対し、主人に対し、自分達も、その人と同じように苦労をしなくてはならぬように感じていた。そして、身体を冷やしつつ、歩いた。
それでも、鈴ヶ森へかかって、海の鳴る音、波の打上げて来る響き、松に咽《むせ》びなく風と、雨の音を聞き、仕置場の番小屋の灯が、微かに洩れているのを見た時には、流石に気味悪くなって
(品川で泊った方がよかった)
と、思った。街道には一人の通行人も無かったし、これから川崎までは、殆《ほと》んど人家の無い道であった。川崎は、未だ深い眠りの中にいるうちに通った。そして、鶴見へ入る手前で、ようよう雲に鈍い薄あかりがさし初《そ》めて、雨が上るらしく、降りも少くなって来たし、雲の脚が早く走り出した。
合羽を着ていたが、それを透したと見えて、着物の所々が、冷たく肌へ感じるくらいに濡れていた。そして、暁の冷たい空気が顫えるくらいに寒かった。
鶴見を越えると、道傍の、茶店などは起き出ていて、煙が低く這っていたし、いろいろの朝らしい物音が聞えかけてきた。神奈川へ入る手前では、早立ちの旅人が、空を仰ぎながら、二三人急いで来た。そして
「お早う、道中を、気をつけさっし」
と、気軽に三人へ挨拶して、擦れちがって行った。綱手は
(こんな人ばかりの道中ならよいのに)
と、思った。そのうちに断《き》れ断《ぎ》れの雲間から、薄日がさし出した。三人は、神奈川の茶店で、朝食を食べて、着物を乾すことにした。鰊、蒟蒻《こんにゃく》、味噌汁、焼豆腐で、一人前十八文ずつであった。
この辺から、左右に、小山が連なって、戸塚の焼餅坂を登りきると、右手に富士山が、ちらちら見えるまでに、晴れ上ってしまった。左手には、草のはえた丘陵が起伏して、雨に鮮かな肌をしていた。戸塚の松並木は、いつまでもいつまでもつづいた。七瀬は、その松並木が余りに長いので腹が立った。そして、すっかり疲れきった。
松並木の下の、茶店で休むと、腓《こむら》に何か重い物を縛りつけているようで、腰も、足も立たなくなってしまった。茶店の亭主が、江戸からと聞いて
「そりゃ、無茶だ。奥様、無茶というものでがすよ。女の脚で、おまけに、初旅というのに――そんな無茶な――こちらへござって、足をよく揉んで、暫く、ち
前へ
次へ
全260ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング