して、もう一言
「長々――」
 と、いうと、涙声になった。八郎太も
「うむ」
 と、いっただけであった。深雪は、門の柱へ袖を当てて、顔を埋めていた。綱手は、その片手を、しっかりと握って、片手で、母親の手を掴みながら、手を顫わして泣いていた。小太郎は、涙の浮んで来るのを、そのままに、雨空を見上げていた。暫くして、七瀬は
「御看護に不調法を仕りまして申訳もござりませぬ。この失策は、必ず、上方にて取戻して御覧に入れます」
「抜かるな」
「み、深雪を、何うか――」
「うむ――綱手、予々《かねがね》申付けある通り、命も、操も、御家のためには捨てるのじゃぞ。又、こと露見して、いかようの責苦に逢おうとも、かまえて白状するな。敵わぬ時は舌を噛め、隙があれば咽喉を突け」
「はい」
 綱手の頬は涙に濡れていた。七瀬が
「深雪」
 深雪は、振向かなかった。
「何を、お泣きやる」
 それは、深雪の泣くのを叱るよりも、自分の弱さと、涙とを叱る声であった。綱手は、自分の握っていた深雪の手を放した。深雪は、顔に袖を当てたまま母の方へ振向いた。
「お前も、何れ、綱手と同じように、働かねばなりません。それに――そんな――よ、弱いことで――」
「七瀬、道中、水当り、悪人足に気をつけよ。深雪は、益満の許にあずけるから、心配すな。小太郎、申すことは無いか」
「別に――御身体、気をおつけ遊ばして」
「お前も――」
「では行け。又蔵、たのむぞ」
 小者は、地に両手をついて
「いろいろと、御世話になりました。命にかけて御供仕ります」
「たのむ」
「では、御、御機嫌、よろしゅう」
「道中無事に――」
 深雪と、綱手とはもう一度抱き合った。そして、泣いた。それから、深雪は
「お母様」
 と、叫んで、胸へすがった。七瀬は、その瞬間、深雪の背をぐっと抱き締めたが、すぐ
「未練な」
 やさしく、深雪の指を解いて、押し放した。そして、雨具、雨笠を手に、門から一足出た。深雪は、佇んだまま袖の中で声を立てて泣いていた。七瀬と、綱手は、手早く、雨支度をすると
「参ります」
「うむ」
「母上をたのむぞ」
 深雪は、雨の中を駈け出した。小太郎が、追っかけて素早く引留めた。そして、泣き崩れる深雪を自分の胸の中へ抱え込んだ。三人の者は静かだったが、すぐ見えなくなった。だが、すぐ、闇の中から
「お父様」
 と、綱手の声がした。八郎太が
「未練者がっ」
 と、怒鳴った。しめった声であった。

  両党策動

 目黒の料亭「あかね」の二階――四間つづきを借切って、無尽講だとの触込みで、雨の中の黄昏時から集まって来た一群の人々があった。
 もう白髪の交っている人もいたし、前髪を落したばかりの人も混っていた。平島羽二重の熨斗目《のしめ》に、精巧織の袴をつけている人もあったし、木綿の絣を着流しに、跣足の尻端折で、ぴたぴた歩いて来た人もあった。
 人々の前には、茶、菓子、火鉢、硯、料紙と、それだけが並んでいた。階段から遠い、奥の端の部屋の床の前に、名越左源太、その左右に御目見得以上の人々。そして、その次の間の敷居際には、軽輩の人々が、一列に坐っていた。
「仙波が来ぬが、始めよう」
 名越左源太は、細手の髻、一寸、当世旗本風と云ったようなところがあったが、口を開くと、底力を含んだ、太い声であった。
「今日の談合は――」
 と、云って、低い声になって
「御部屋様の御懐妊――近々に、目出度いことがあろうが、もし、御出生が、世子ならば、その御世子を飽くまで守護して、御成長を待つか。又、それとも――女か――或いは、男女の如何に係らず、お由羅派を討つか、それとも、牧仲太郎一人を討つか――この点を、計って見たい」
 居並ぶ人々は、黙っていた。
「つまり、成るべくならば、家中に、党を樹てたくはない。たださえ、党を作ることの好きな慣わしの家中へ、御当主斉興派、世子斉彬派などと分れては、又、実学崩れ、秋父崩れなどより以上の惨禍が起るに決まっておる。これは御家のため、又漸く多事ならんとする天下のために、よろしくはない――然しながら――」
「声が、高い」
 と、一人が注意した。左源太は、又、低声《こごえ》になって
「斉彬公の御子息御息女四人までを呪殺したる、大逆の罪、しかも、その歴々たる証拠までを見ながら、これを不問に付するということは、家来として、牧の仕業に等しい悪逆の罪じゃ。ただ――もし――然しながら、この企てが、お由羅の計画であり、斉興公も、御承知とすれば――吾等同志は、何んと処置してよいか? 福岡へ御|縋《すが》りするか? 幕府へ訴えて出るか、斉彬公へ仔細に言上するか?――もし、このまま捨ておいて、御出生が男子なら、牧は又、呪殺するにちがいない。然らば、牧を討つか? 然しながら、果して、牧一人討って、禍根を絶滅させうるか? 牧
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