た奴は、岡田小藤次って、野郎でさあ」
八郎太も、小太郎も、ぺらぺら妙なことを喋っている庄吉に、五月蠅《うるさ》さを感じていたが、岡田と聞いて、次を聞く気になった。七瀬も、娘も、庄吉の顔を見た。
「ねえ、ところが、若旦那に、御覧の如く、手首を折られっちまいました。小藤次野郎も、自分のいい出したことだから、あっしに済まねえと思ったのでしょう、庄吉、この仇はきっと取ってやるって――どうか、皆さん、怒らずに聞いておくんなさい。するてえと、昨日、仇は取ってやったよ、あいつら明日から浪人だと――あっしゃあ、実のところ胸がすーっとしやしたよ。全くね。ところが、さっきお嬢さんにお目にかかりやした。あっしの怨みのあるのは、この若旦那一人にだ。こんな、別嬪のお嬢さんを怨もうにも、怨めやしませんや。ねえ旦那、そうでしょう。若旦那に怨みはある、然し、憚《はばか》んながらお嬢さんにゃあ、怨みも、罪も何んにもねえ。そのお嬢さんが、もう一人ふえて、お二人だ、それに又ふえて、旦那様、奥様まで――それが、何か大それた泥棒でもなすったのならとにかく、小藤次野郎の舌の先で、ぺろりとこの泥の中へ転がされちゃあ、江戸っ子として、旦那、自慢じゃあねえが、巾着切仲間じゃあ、黙って見ていませんや。それで、さっきから、何か、いい工夫がなかろうかと、おでんを食べ食べ考えていたんでげすがね――いい智慧が、ござんせんや、随分、お力になりますが――」
庄吉は、一生懸命であった。
「そうか」
八郎太は、笑った。
「よくわかった」
庄吉の顔を見てうなずいてから、七瀬に、
「何時までも、ここにはおれぬ。僅かの道具に未練をもって、夜明ししおったと噂されては口惜しい。そちとも、何れは別れる宿命でもあるし、ここからすぐに上方へ立て――」
「旦那」
庄吉が、口を出した。八郎太が、庄吉へ手を振った。
「あっちへ行っとれ――旅は急ぐなよ、八里のところは、六里にしても、足を痛めて馬、籠などに乗るな、駕人足一人前の賃で、十五文の宿銭が出る。夜は必ず、御岳講か、浪花講へ泊れ」
「それが、ようがす、宿のことなら、あっしが――」
「煩いっ」
「旦那、御尤もでござんす」
庄吉が大きな声を出した。そして、早口に
「あっしが、若旦那をお怨み申したように、あっしが憎うがしょう。だがねえ、あっしら仲間にゃあ、意地って奴と、粋興って奴とがござんしてねえ――」
小太郎が
「わかったから、あっちへ参れ」
と、いって、庄吉の肩を、静かに押した。
「ようがす。この御道具類は?」
「捨てて置く」
「じゃあ、あっしに頂かせて下さいまし」
八郎太が
「売って、手首の疵の手当にでも致せ」
「ところがね、へっへっへ、そんな、けちな巾着切じゃござんせん――じゃあ、皆様、あっしゃ、ここで失礼いたしやす」
庄吉は、丁寧に、御叩頭をして門番の窓下へ行って
「御門番」
と、怒鳴った。そして、何か、紙包を渡して、物を頼んで、雨の中を、闇に融けてしまった。
親子、主従六人は、もう顔も見えぬくらいになった闇の中に立っていた。八郎太は、話し出そうとして、妻の顔が、ほのかな、輪郭だけしか見えぬのに物足りなくて
「灯を――」
と、いった。又蔵が
「はい」
燧石《ひうち》が鳴った。その火花の明りで、ちらっと見た夫の顔、小太郎の顔。七瀬は、それを深く、強く、自分の眼の底に、胸の奥に、懐の中に取っておきたいように、感じた。
提灯は、すぐついた。こんなところを、余り人に見せたくないと思っていたが、闇の中で、このまま別れることも、八郎太には、流石《さすが》に出来なかった。
綱手は、深雪に助けられて、旅支度をしていた。二人とも、灯がつくと涙の顔を外向《そむ》けた。八郎太は、二人の娘の顔をちらっと見たが、平素のように、何を泣く、と叱らなかった。
七瀬は、手甲、脚絆までつけて、いくらか蒼白めた顔を引き締めて、夫の眼をじっと見た。いつもの七瀬よりは、美しく見えた。小太郎は、親子の生別よりも、反対党に対する憤りでいっぱいだった。彼は、腕を組んで、胸を押えていたが、悲しいものが、胸の底に淀んでいて、時々、押え切れないで湧き上って来かけた。
七瀬は、何をいっていいか、判らなかった。何かに、せき立てられるようで、いいたい事がいっぱい胸の中にあるような気がしたが、その何れを、何ういっていいのか――苛立《いらだ》たしさと悲しさとが、いいたいと思うことを、突きのけて、胸いっぱいにこみ上げてきた。
「いろいろ――」
それだけいうと、咽喉がつまってしまった。人目が無かったなら、せめて胸へでも縋ったなら、このいろいろの胸の中の思いが、夫の身体へ滲み込むだろうと思えた。四ツ本の無法な、冷酷な仕打ちさえ無かったなら、今夜は、ゆっくり名残を惜めたのにとも思った。そ
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