いる人々の背へ、眼をくれながら、益満休之助が、傘を傾けて、急ぎ脚に、通って行った。
玄関脇の部屋で、又蔵が、古着屋を相手に、いくらかでも高く売ろうと、押問答をしていた。
綱手と、深雪とが、七瀬が、旅着と、その着更のほか、白無垢まで持ち出してしまったので、新調の振袖も、総|刺繍《ぬい》の打掛も、京染の帯も、惜しんでおれなかった。
「これは、二度着たっきり――」
綱手は、甚三紅《じんざべに》の絞りになった着物を、肩へ当てて、妹に見せた。深雪は、涙ぐみながら、大久保小紋の正月着、浮織の帯、小太夫鹿子の長襦袢、朧染の振袖と、つづらから出して、積み上げた。
七瀬は、夫の着物を出して、えり分けた。八郎太は「道中細見」の折本を披げて、大阪までの日数、入費などを、書き込んでいた。
「十五両? 馬鹿申せっ、人の足許へ付け込んで。この素ちょろこ町人め。又蔵、日影町へ一っ走りして、もそっと人間らしいのを五六人呼んで来い。わしが売ってやる」
益満が、大きい声を出していた。そして、荒い足音がすると
「小太っ、怒ったか」
と、怒鳴って、襖が開いた。
「おお、益満」
「これは」
益満が、御辞儀をした。
「小太郎は?」
「足下《そっか》を探しに参ったが――」
「はて――」
益満は、坐って
「そこの遊芸師匠の家で――丁度小藤次の若い奴がおりましたので、小父貴だの、小太郎を毒づいて、お由羅の耳まで入るよう、一寸、小刀細工をしたが、小太め、本気にとりましての、かんかんになって駈け出して行ったが、戻らないとは」
「たのみがあるが――」
「何を――」
「暫く、深雪はあずかってもらいたい」
「そして、小父上は?」
「妻に、調所のもとを調べさせ、わしは、牧の在所《ありか》を突き止め――」
「御尤もながら、今度のことは、一人二人の手で、何んとも仕様のないことで、証拠も握れましょうし、陰謀の形跡も、調べてわからぬこともないが、さて、何うそれを処分するか? もしこれに、斉興公が御同意なら、取りも直さず、斉彬公のために、その父君を、罪に処すことになる。同志の苦慮するところはここで――」
益満は、声をひそめた。
「万一の時には、久光殿を――」
指を立てて、斬る真似をした。
「禍根は、ここにござりましょう」
八郎太は、返事をしないで、益満の顔を眺めていた。
「極秘、未だ同志にも語りませぬが、久光様の御側小姓を一人、引入れて――」
二人は、じっと眼を合せた。八郎太にとって、益満の底知れぬ、そして、大胆な計が、少し薄気味悪かったし、益満は、一本気なこの老人に、ここまで話していいか、悪いか――八郎太の様子をうかがった。
「まあ、雨がひどくなったのに、小太郎は」
七瀬が、独り言のようにいった。
雛人形を、膝の上で、髪を撫でたり、襟をいじったりしていた深雪が、七瀬の声に、周章てて
「お迎えに行って参じましょうか」
人形を、箱の中へ入れて、じっと、眺めていた。益満が
「四国町の、湯屋横町に、常磐津の師匠がいる。そこからこの町、心当りを聞けば、判るであろう」
「はい」
深雪は、人形に、小さい声で
「これで、お別れ致します。他所《よそ》の可愛いお嬢さんに、たんと可愛がってもらいなされ。さよなら」
両手を、人形箱の前へついて、御叩頭した。薄い涙が眼瞼に浮いていた。
「行って参じます。お母様、妾の戻らぬうちに道具屋を呼んでおいて下さいませ」
襖越しに、こう云って
「ああ」
と、七瀬の気のない返事を聞くと、もう一度、人形を取り出して、頼ずりをした。一尺余りの古代雛は、澄んだ眼を、うるましているようであった。深雪は、雛の頭を撫でながら、もう一度自分の頬を頬へくっつけていたが、
「手柄を立てて、元の身分になるまで、辛抱して下されや」
と、雛の耳に囁いた。そして、撫でて乱れた髪を、自分の櫛で解いて、そっと、箱へ納めた。
「もう、売らねえ」
「そういわずに、三十両で」
「手前、根性が、腐ってるから厭だ。おれが、一分や二分もらって、主家の品を安く売る男と思ってるのか」
又蔵が、古着屋に怒っていた。深雪は、傘をさして、門口を出た。表門から、往来へ出ると、雨合羽、饅頭笠の人々が、急ぎ足に行き通っていた。
四国町の自身番の、粗末な、黒い小屋の前に、人が集まって、何か覗き込んでいたが、深雪は、人から、顔を見られるのが厭なので、傘を傾けて通った。
大きい達磨を書いた油障子の立ててある髪結床の前に、薬湯と、横板の看板のかかった湯屋があった。その横町の泥溝沿いに入って行くと、軒下に、小さい紅提灯がつるしてあって、中を覗くと、一坪程の土間に、大提灯が、幅をしめていた。
「あの――」
男が、大勢坐っていたので、どきっとしながら
「仙波と申します者が、お宅に――」
男達が、ざわめい
前へ
次へ
全260ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング