と舌を出して、眼を剥いた。小太郎は、憤怒に逆上した。
「たわけっ」
 下駄のまま、板敷へ、どんと、片脚踏み込んで、側の木片を握った時
「小太郎っ」
 障子が開いて、小藤次が、次の間から板の間へ飛び降りた。小太郎は、木片をもったまま
「不埓なっ、通るを見かけての罵詈雑言《ぼりぞうごん》、勘弁ならぬ――」
「馬鹿っ」
 一人の職人が、木片を、かちんと叩いて
「東西東西、この場の模様は、いかがに相成りまするか」
「えへん」
 一人が、空咳をした時、小太郎は後方に人の動きを感じた。振向くか、向かぬかに、跳りかかる一人の男と、その手に閃く棒とを見た。その瞬間、小太郎は、反射的に、身体を伏せたし、小太郎の手は、平素の修練で、咄嗟《とっさ》に、延びていた。男が
(しまった)
 と、よろめき、小太郎が、腕に、重みを感じた時
「ええいっ」
 小太郎自身が叫ぶよりも、腕が、咽喉に叫ばしたのだった。男がよろめいて、前へのめる力を、そのまま引いて、さっと、太腿を払った引倒しの一手。どどっ、板の間に、壁に、天井に響いて、男はうつ伏せに、倒れてしまった。棒が、からんからんと、板敷へ音立てて転がった。小太郎は蒼白《まっさお》な顔をして、突立った。
「やいっ、仙波っ、小倅」
 小藤次は、刀へ手をかけて怒鳴った。
「うぬは、もう、素浪人だぞっ。土足のまま人の家へ入《へえ》りゃあがって、この泥棒め。勝手に、人の宅へ入りゃあ、引っ捕えて、自身番へ渡されるのを知らねえか。この野郎」
 小太郎は、前から企んでいた計《はかりごと》だと感じた。
(いけない、長居しては――)
 一人を叩きつけたので、いくらか、胸が納まった。
 板の間へ叩きつけられた男は、起き上らなかった。小太郎が、出ようとすると
「殺しゃあがったなっ――人殺し」
 と、一人が叫んだ。
「えらい血だ」
「医者っ」
「役人を呼んで来いっ」
「逃すな」
 奥からも、向い側からも、人が走り出して来た。
 抱き上げられた男は、口から血を流していたし、鼻血で、頬も、額も染まっていた。眼を閉じて、唸っていた。何を叫んでも、返事しなかった。
「人殺しだっ」
 往来の人々が叫んだ。雨の中を近所の人々が、傘もささずに駈けつけた。そして、小太郎を恐ろしそうに避けて、板の間へ集まった。庄吉は懐手のままで、微笑して立っていた。小太郎は、動くことができなかった。

「除けっ、除けっ」
 その声と共に一
「御役人だ」
 と、人々が、呟いた。
 小太郎は[#「小太郎は」は底本では「小太部は」]、立っている大地が、崩れて、暗い穴の中へ陥って行くように、絶望を感じた。だが
(取乱してはいけない)
 と――父のこと、母のことよりも先に、武士として立派な態度をとりたいと感じた。
「何うした」
 自身番に居合せた小役人は、小藤次と顔馴染であった。小太郎を、じろっと見たまま、職人にこう聞いた。
「そいつが、常を殺しゃあがったので」
 役人は、小太郎に
「何れの御家中で――」
「薩藩――」
 と、口に出して、黙ってしまった。その途端
「薩藩? 巫山戯《ふざけ》るねえ。得体の知れねえ馬の骨のくせに、薩藩? 一昨日《おととい》来やがれ、この乞食侍」
 庄吉が怒鳴った。小藤次が
「昨日までは、俺んとこの下っ端だったが、不都合をしゃあがって、お払箱になった代物だ。一つ、しょっ引いて行ってくれ。人の骨を折ったり、殺したり、近所へ置いとくと、危くっていけねえ」
 役人は、小太郎の手を握って
「とにかく、番所まで――」
 抵抗したとて、素性の知れた身として無駄であった。だんだん多くなってくる群集に、見られたくもなかった。
 小太郎は、無言で、役人と肩を並べて歩き出した。群集が、左右へ分れた。
 雨は少し烈しくなって来て、道が泥濘《ぬかる》んできた。小太郎は、いつの間にか、跣足《はだし》になっていた。髪が乱れていた。頭から、びたびたかかる雨の中を、人々の眼を、四方から受けて、自身番の方へ、引かれて行った。
「常っ」
「うむ」
「死んじゃいねえや」
「ぺっ」
 常公は、唾を吐いた
「こいつ、物を云ゃあがる。死んだんじゃあねえや、やいっ、しっかりしろ」
「しっかりしてらあ。ああびっくりした。眼から火が出るって、本当に出るもんだのう」
 常公が起き上った。
「俺《おいら》あ、殺されると、思ったよ。死んだ振りを、していたが」
「こん畜生っ、びっくりさせやあがって」
「あれっ、前歯が折れてやがらあ」
 常は、指を口の中へ突込んだ。小藤次が
「よかった。仙波の小倅め、しおしおと引かれて行きあがって、いい気味だ。庄っ、溜飲が下っただろう」
「溜飲は下ったが、常公、睾丸《きんたま》がちぢみ上っちまったぞ。血だらけの面をして、眼を剥きあがって」
 人々が、笑いかけた時、表口に集まって
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