まぬが、久光も、また、主とも頼まぬ。天下のことは、自分一人で、天下と共に、天下の勢いと共に、天下の士と共に、成し遂げて見る」
西郷吉之助は、こうした決心をした。そして、同じ心の人々は、斉彬の遺業が、斉興の手にて、破壊されると同時に、斉彬の志を奉じて、それぞれ、諸国に奔《はし》った。上士は、勤王、倒幕の遊説の士が、城下へ入るのは、防いだが、軽輩が、そのために、脱出するのを、とめはしなかった。
止めることは、激発させるおそれもあったし、一人でも、そうした男のいなくなることは、自分を安全にする道であった。上士にとって、斉彬は、理解のできぬ、大きい陰影のようなものでもあった。そして、その死と共に、それが消失すべきであるのに、だんだんその影が大きく、強くなるのに、困った。そして、その影を、消し、払うことのみに努めていた。
(兄の、遺志を、どこまでも継いで――)
その日の夜から、久光は、そう考え、そう決心をしていた。
だが、その日の夜から、重役達は、久光を除いて、密談をしていたし、その翌日、上士階級の人々は
(もう一度、斉興公に――)
と、話をしたし、その次の日には、久光が斉彬に代って、目をかけてやろうと、考えていた人々が、久光に冷やかな目を向けたし、それから、幕府は、斉彬を頼みとしていた、その一部分をも、久光を、頼みにはしていないようであった。
(兄の考えは、何一つとして間違っていない。天下も、島津も、兄の予言の如くになって行くであろう)
久光は、そう信じて、もう一度、家政を支配しようとする斉興に対し、させようとする人々に対し、押えきれぬ不満と、怒りとをもっていた。
(わしは、自分の権勢のために、忠義の後見をしようとするのではない。天下のため、島津のためにだ)
だが、久光を取巻く、上士の人々は、一人として、久光に
「また、老公が、お立ちになるとは、困ったことでござりますな」
と、さえ、いう者がなかった。そして、その代りに
「軽輩共は、今度の斉彬公の御逝去も、お由羅様の、呪咀だなどと申して、ひそひそ談合しております」
と、いった。そして、軽輩は、明らかに、久光を、敵視していた。久光は、葬式の日に見た西郷吉之助の、大きい眼を思い出した。それは、十分の敵意と、怨恨とを含めて、睨みつけた眼であった。久光は、遠からぬ前に、吉之助らが、斉彬のために、久光を元兇として、立とうと企てていた、ということを聞いていた。だから
(わしは、兄の志を継いで、共々天下の難に赴こうというのに、汝等、わしの肚がわからぬか)
とも、考え
(不届な)
とも、怒り――そうして、ある時には
(わしは、まだまだ兄にまでは到らぬから)
と、反省もしてみたが、重臣達は、久光を、斉彬の崇拝者として危険に思い、軽輩は、斉彬の敵として、憎んでいるかと思うと、ただ一人、孤独の立場になって、自分を知られぬ苛立たしさに、落ちつけなかった。
久光は、兄の残しておいてくれた、軽輩の人々の連名を読み、新しい器具の設計書を見、新しい知識の翻訳書を眺めて、ただ一人、部屋の中に、閉じこもっていた。
(兄は、こういう時に、いつも、判断を、誤らなかった。重役共が、己のために、斉興を立てて――父の命が、何年あると思うか? それだけの間小康を得て、何になるか?――兄の仕事を、こわして、それで、兄の蒔いた種までが、枯れるとでも、考えているのか?)
久光は、重役とか、上士とかの人々の、あせり方と、軽輩が、斉彬の死後、何一ついわず、何一つせず――そして、ひそかに、脱藩して、京師へ、江戸へ、行くのを見ていると
(世の中も、ちがってきたが、お国風もちがってきた)
と、感じない訳には、行かなかった。
(十年前なれば、軽輩を、手もなく、押えたであろうが、今では、上士は、己を守るのみに忙がしい。勝利は、明らかに、軽輩の手にある。わしを恨んでもいいが、わしは、お前らを、十分理解しているつもりだ)
久光は、自分の代になると同時に、西郷を、大久保を斉彬のしたと同じように、重用してやろうと決心した。
久七峠の上の、茶店に、七八人の若者が――それは、脱藩をして、江戸へ、益満等と共に、行を同じゅうせんとする人と、京師へ出て、諸国有志と、提携しようとする人と、そうして、見送りに来た人と――
「爺は、いつも変らぬのう」
「はい――」
「婆は、何うした?」
「あれは、半年ばかし前に、亡くなりましてな」
「そうか、死んだか――」
「いつだったか、矢張り、貴下方みたいな方が、この先で、斬合いをなされましたが、今日も、何か――」
若い人々は、眼を見合せて
「牧を、討ちに来た時だった、あれは」
一人が、窓から、遥かの、山裾の道を、指さして
「あの辺だった」
一人が
「ま、行こう。一刻《いっとき》、遅れると、一刻
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