お由羅が
「ま、かような陰気臭いところへ――」
 と、いつものように、媚びた眼で見上げる顔へ、ちらっと、眼をくれたまま、仏壇の前へ坐った。そして、じっと、燈の閃いている仏壇の中を、眺めていた。
 死んでみると、何か、取返しのつかぬ大切なものを亡くしたように思われた。多少いじめてもこんなに早く死ぬとは考えられぬことであった。斉彬が生きているうちは、いろいろの意見の相違、心配、不平などがあったが、死んでしまうと――そして、天下の人々が、一斉に、その死を惜しむのを聞くと、自分に対する斉彬の心づかい、一通りでない苦慮、孝心を聞くと、何んなに、お由羅が
「久光がおります」
 と、いってくれても、心を傷ましめるものが、去らなかった。
(死なずともよいのに――)
 と、斉彬を恨むような心さえ起ってきた。眠ろうとしても、眠ってからでも、斉彬や、お為派崩れに刑死した人々のことが、繰返し、繰返し、思い出された。
 だが、そうした人々よりも、もっと斉興を痛ましめる面影は、七人の幼い子供のことであった。お由羅は、そのどの子も見たことはなかったが、斉興は、自分の孫の顔を、時々見たことがあった。
 そして、こうした、老いた、衰えかけた心の中に現れて来る幼児の幻は、哲丸も、虎寿《こす》丸も、たれもかれも、皆にこにことして、笑っていた。お由羅の陰謀の手にかかって死んだのであるのに、それを少しも感じないように、恨んでもいないように、斉興の眼の中で、愛らしく笑っていた。何《ど》の子も、よく肥った、聡明な眼をして、笑ったり、叫んだり、もがいたりしていた。斉興は
(わしを恨んでくれい。わしを、恨んでくれる方が、わしの苦しみは、少い。何うして、お前等は、そう無邪気なのか――)
 と、いう風に、それらの子供の幻に対して、悲しみに、心を、顔をゆがめながら、叫んでみた。
 斉興は、暫く、そうした幻を描いてから、薄く涙の滲んだ眼を開いて、経机の上の香炉へ、線香を立てた。お由羅が、珠数を渡した。斉興は、珠数を手にかけて、俯向くと同時に、膝の上へ落ちる涙を感じた。お由羅は、それを見て
(こう弱くなってはいけない)
 と、感じた。それで
「お済みになりましたら、何か気晴らしを致しましょう」
 と、声をかけた。だが、斉興は、俯向いたままで、返事もしなかった。
(ここまで来て、ここで弱くなっては、何んにもならない)
 お由羅は、斉興に対して、じりじりと、焼けつくような、もどかしさと、憤りとをさえ感じてきた。

 大老阿部伊勢守は、黒書院控の間の、床の前に、ただ一人で、膝へ両手を置いて、瞑目していた。
(なぜ、死んでくれたか?)
 伊勢守は、目でこぞ泣かなかったが――いいや、泣くだけの力さえなくなっていた。
 幕府の人々の中には、誰一人として、この国の大事の時に、阿部の力となり、慰めとなる人がなかった。将軍は、重臣は、町人から献金させてでも、奢侈《しゃし》な生活をしたがっていたし、旗本は、家重代の鎧までを入質して、生活費に当てているし、大名は、各々己の家を支えるだけに、全力を挙げなくてはならなかった。
 その中で、唯一人、日本のため、幕府のため、阿部のために、自分の利害を、薩摩の利害を、越えて、見識を、手腕をかしてくれた人は、斉彬であった。伊勢守にとって、斉彬を、失ったということは、自分の頭を、両脚を、背骨を、失ったと同じようなことであった。
 幾度か、大きく、息を吐き、幾度か、膝の上の手を、組んだり、解いたり――伊勢守の頭の中は、斉彬の死を聞くと共に、空虚になって、急に、日本の、幕府の四方が、暗くなったように思えた。襖が開いたので、顔を上げると、西丸御留守居、筒井肥前守政憲が、入って来て
「修理が、亡くなったそうな」
 と、云って、前へ坐った。そして、坊主の足早に持って来た褥を敷いて
「斉彬を奉じて、倒幕をやろうなどと企てておった浪人共は、さぞかし、力落しであろうが――惜しい人物だが、又、邪魔な人物でもあった」
 伊勢守は、それに答えないで、眼を閉じたままであった。
(斉彬が、亡くなれば、異国掛が、堀田一人で、堀田と、斉彬は、段がちがう――斉彬は、勝麟太郎という軽輩を、いつか推しておったが、島津の家風なら、いざ知らず、幕府として、堀田と、軽輩とを、併用する訳には、行かない――国の衰える時には、人物が無いが、天下に号令をしている徳川として、堀田と、小栗。この二人しか、一人前に、用いられぬとは――)
 斉彬の、温厚な、だが、肚のすわった、そして、立派な――広い知識と、高い見識とを思い出すと、筒井政憲の顔を見るのさえ、厭になってきた。
(斉彬は、日本のために、幕府のために尽して、過労で死んだのであろう。わしも、いささか、斉彬を見習って、職に倒れよう。斉彬のために、わしの最後の友情として、斉彬
前へ 次へ
全260ページ中256ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング