間半でくる。十一時に宿へつくとすぐ湯へ入って、私は原稿を書けるし、本が読めるし、恋人に逢えるし(もし、有ったとしたら――実際私がこんなに、度々、大阪へくるのに、一人の愛人も無い、ということは淋しいことにちがい無い)、そうした時間の利用に、超特急よりも、夜行列車よりも、経済的である。
 実際、科学に対し、飛行機に対し、日本人も大阪人も、理解が無さすぎる。大阪に住んでいる外人は、仮に、五千人としておいて、大阪の人口が、仮に二百万として四百分の一である。所が、大阪、東京間の旅客機には、二三十人に一人位の平均で、外人がのっている。外人が、特別に忙がしいのでもなく、金持のせいでも無く、冒険心からでも無く――私に云わせると、飛行機に対する信頼の度が、科学に対する理解の度が、日本人よりも、二十倍強いせいである。
 リンドバーグが、大西洋を横断する時に、全米人が熱狂した。それに対して、日本人は「アメリカ人の、いつも世界第一主義だ」と、軽く評していたが、それも有ろうが、外国の科学の勝利、自国の飛行機の優秀さに対する国民の後援である。
 私は、最近、日米戦争に対する十数種の書物を乱読してみたが、何を、一番感じたかと云えば、飛行機についてである。
 飛行機のラジオ操縦は、その実験では、完成されたし、人造人間の操縦も、立派に成功している。私は、日米戦争が、急に起ろうとは思っていないから、アメリカの軍用飛行機が、どんなに優れていたって、直に議会へ、空軍充実の提案をしろ、とは云わないが、アメリカの爆撃機が、三千メートルへ上昇するのに四分半かかり、日本のそれが七分かかるという事は考えなくてはならん事である。
 それは、飛行機のみに対しての問題ではなく、一般科学に対してこの優劣があるからである。科学の優劣が、何を与えるか? この問題を、日本人は、大阪人は、余り考えていなさすぎる。
 人造絹糸が発明された。それを聞いた時、日本人は、あほらしいと思った。実物がきた。こんな物は、生糸と較べ物にならんと、評した。五六年前まで、生糸業者は生糸とは別の物で、心配する事は無い、と断言した。だが、何うだ今日――。
 生糸の需要減退は、アメリカ不景気のみと、誰が断言できる。人絹に圧迫されていないと、誰が云いうる。
 又樟脳は日本の特産物であった。一斤二十円以上もして人工生産は、不可能だと、世界の市場を独占していた。所が、独逸は、大戦中、樟脳の供給が断たれて、火薬の製造に困ったから、これの人工製造を研究して、見事に成功した。そして、日本樟脳は、一斤五円にまで激落してしまった。
 天産に乏しい日本として、科学の発達をさせて、無より有を生じさす以外に、方法の無い事は、判り切っているのに、日本の人々は、科学に対して、甚だしく冷淡である。アメリカの富豪の如き、必ず個人の科学研究所をもっているが、これがアメリカの繁栄を、何う助けているか判らない。
 今日の「サンデー毎日」を読むと「有機ガラス」が、大阪工業研究所の庄野唯衛氏の手で、発明されているがこれである。この一発明が何んなに大阪人を、日本人を富ますか、この新らしい研究に何んという後援者が、いくら金を出したか判らぬが、恐らく、この仕事が、工業化された場合、その利益は、その研究費の何万倍になって戻るか、判らないであろう。
 大阪人が、何故、その富を、こういう風に利用しないか? そこには、金儲けと、国益と、社会への貢献と、いろいろのものが含まれている。エヂソン一人の発明が、七百億ドルに価すると云われているが、十万円の研究費から、何億の富が生じるか?
 私は、大阪人の度胸と、富とがきっとそれに適しているであろうと信じている。私は、明日の大阪をして、発明の源泉地たらしめようと、それを先ず、大阪へすすめて後、私に都合のいい大阪文化の樹立を説きたいのである。科学を最初に――文化的開発を第二に――私の希望はこれである。

  芝居

 私の「南国太平記」を、新声劇で、上演しているので、私は、私の知らない間に知らない母との間に、生れた子供を見に行くような気持で、一寸、覗きに行った。
 私は、いつも忙がしいので(何に、一体忙がしいのか、とにかく、忙がしい。自分ではよく判らぬが、マージャンを、毎晩やるし、囲碁をやるし、将棋をさすし、恋愛をするし、旅行もするし、時々、本を読むし、稀に、原稿をかくし、それで、多分、忙がしいのであろう)、映画とか、芝居とかは、見た事が無い。
 勿論、大阪の芝居などというものは、三十年も入った事が無い。私が、大阪の芝居を見た時分、私の家庭のような貧乏な連中にとっては年中行事の一つであった。私の母親は、前の晩に髪を結って、重箱を造っていた。そして、芝居の中で重箱以外のいろいろの物を買って、食べていた。
 この風俗は後年にも、しばしば御霊文楽座に於て、見受けた所であるが、これは猶大阪人の楽しみの一つであるらしい。東京の女性は椅子席で芝居のみを見て、幕間に食堂で食べ、廊下で、容色と衣裳とを見せる事に、すぐ慣れたが、大阪の女は、もし、松竹が、悉く、芝居を椅子席にしたなら、恐らく、不平を洩らして、拗ねるにちがい無い。
 東京の女は「西洋は、こうだ」というと「そう」と、云って食べたいのを我慢するが、大阪の女は「芝居で物を食べたら、何んでいきまへんね」と、突っかかるにきまっている。私は、芝居を見乍ら、食べ、飲み、握手し、接吻することを、決して下等だとは、思わないが、こうした東京の女は、直ぐ新らしさを受入れ、大阪の女は旧風を固守する事に、可成り文化の進歩に、遅速が生じて来たと思っている。
 直ぐ、ハイカラ風を受入れる、受入れるに就いての是非は別として、何程かの後に東京風が、大阪へ侵入して来る事だけは確かである。大阪の女が、どんなに頑張ろうとも、芝居はだんだん椅子風になって、食事と別になる事は明らかである。そして、それらの遅速が文化の遅速である。
 私は、私の母の如く年に一度しか、芝居へ行かぬ女でさえ、中村鴈治郎を、自分の鴈治郎のように語るのを、知っていた。鴈治郎の声が、何うあろうと、とにかく大阪の俳優鴈治郎が、芝居をしていたら、それでいいのである。そして、いつまででも、鴈治郎で、他に、誰も出て来なくても、十分満足している。
「一寸、やりよるがな、ひいきにしたろか」と、云えば「新声劇」は、十分に、人気を保つことができる。「何や、判れへん。おもろうないな」と、云ったら、何んないい劇団でも、がらがらになる。
 大阪の芝居見人種には、この二種が一番多いらしい。だから、いろいろの新劇団が、できるには一番いい所である。目先きさえ見えたなら、少々の事は、無批判で通してくれる。そして、十分、よくなってから、東京へ出てくる。東京で、育つ種類とは、種類がちがう。
 ひいきの役者さえ出ておれば、それでいい、旧大阪人と、そういう芝居に慣らされて、その人々以下の観賞眼の、新らしい大阪人と――その二つである。前者は新時代を知らず、後者は、適当の育てようを知らない。二つ乍ら、無批判のまま、己の郷土の劇団の、次第に衰弱して行くのを、黙って眺めている。
 坪内士行氏の国民座は解散した。多くの、小劇場運動はいつも、そのまま亡んで行く。亡んで行く者にも多少の欠点はあるが、いつの日か、大阪人も、己の育てた劇場の無いのを、淋しがる日がくるであろう。
 東京劇場、新橋演舞場、歌舞伎座、帝国劇場と、華美をつくした劇場をもっている東京が、収支つぐなわなくなるか? 中座程度の小屋で、見物の満足している日が、いつまでもつづくか? 或は、あの小屋担当の俳優しか、芝居しか、見られなくなる日がいつかくるか? 私は、五六年後に、考えなくてはならぬ時に出逢うであろうと、信じる事ができる。

  女

 私は女は、嫌いでは無い(大抵の女は、好きになるから、或は、こういう、云い方は、まちがって、いるかも知れない)。だから、大阪の女も嫌いではないが(私の、女房は大阪の女である)、どうも――どうも(これは、少し云いにくい所である)少し――少し、物足りない(私の女房だけは別である。失敬)。
 それは、私が毎日、こんな理屈ばかり云っている稼業であるからかも知れないが(女の前では決して云わないが)、どうも、断髪の女と交際すると、やきもちを焼いたり(私の女房では、断じてない)、お前は米の飯で、断髪はチョコレートみたいだから、安心しろ、と云っても、何うせ妾は御飯のように、ぶよぶよしていますわ、と、泣いたり、あれは、マヨネーズだと、三年越教えてやっても、そらネズよ、サラダにかける、と、とうとうネズを、小僧にまで、通用させて、今日は、ネズは未だ御座いますか、と云って女中を、びっくりさせたが――東京の女は、手帳の端にでも控えておいて、そら、マヨネズよ。無いって、あらら、マよ、マヨネズよ、位で、一度、赤面すると、覚えてしまう心がけがある。
 私は、毎月一度、来阪するが、大阪の女で、ぴったり洋服の似合っているのは、ダンサア位のものである。私の生れた町内の如き、未だに、揚げをつけた洋服をきた少女がいるし、それも、せいぜい十二三までで、齢頃の女が、洋装すると、不品行と、同一に考えている。私の親爺の如きも「ええ齢をして、洋装しとる。あんな娘はあかん」と、主張している。
 だが、私の娘の如きは、今年十五であるが、フランスの流行雑誌を買ってきて、自分で注文をして作らせている。私が二十円以下というと、ぷっとふくれるだけで相当な物を見立てている。これが、普通である。
 そして、こういう事は、ただ、洋服のみでは無い。和服に於て、大阪の女は、或は、衣裳持ちで、質のいいものを多く持っているであろうが、その着こなしに於て到底、東京に及ば無い。
 東京の街頭で、けばけばしい薄色の羽織を着、形の悪い鬢に結っている女があったら、それは、関西人か、吉原の女郎かである。黄色系統が流行すると、すぐ黄色に、薄色羽織が流行すると、すぐ薄色に――。
 東京の女は、断髪にし、眉を細くする。だが、それは、極めて一部分の――それは、銀座を歩いても、百人に一人であるが、支那人は、忽ちに、悉く断髪をした。この差が、東京の女と、大阪の女との差に、十分含まれている。アッパッパが、大阪近代風俗の一つとなり、東京の流行が千差万別であるとの差であって、知識の差に、帰着してくる。
 私は、知識を大して重んじないが、知識への憧憬だけは持っていてもいいと思うている。大阪の女にも、それは、女学校時代まであるにちがいない。だが、何の女もそうであるように、家庭を持つと退歩して行く。少くも、彼の亭主は、何らかの意味に於て、年々、進歩をして行くが、女は、女房になったが最後、だんだん退歩してしまう。これが、大阪の女に多い。少くも、東京の女は、いくらか、時代と共に進む意志をもっているが、大阪の女は、家庭を守る事にのみ、専心してしまう。
 それは、確に、一九三〇年までの、良妻、賢母であるが、其の後女性は、妻と同時に、恋人、それからダンサア、それから、職業の助手――そうで無ければ、私は、一人前の女房で無い、と信じている。夫の浮気とは、余り、妻が、妻でありすぎる故に原因している。
 この意味に於て、私は、大阪の女を、今女房にしろ、と云われたなら、甚だ、失礼千万ではあるが長襦袢をきて寝ますか、浴衣がけですか、と、質問したり、男との交際は好きですかとか、嫌いですか、とか――多分、先方から、断られるであろうが――東京の風俗は、そういう方へ、近づきつつある。
 私は、二三の、地方出の女も知っている。彼等は又、勇敢に、東京を模倣している。それは、しばしば滑稽ではあるが、その代り、東京のいい所をも、摂取して、二三年経つと、板についてしまう。大阪は、余りに、自個《じこ》をもちすぎている。

  倹約

 料理屋へ行って食物が残ると
「折へ入れとくれやす」
 と、いうのは、大阪中流の、倹約思想である。悪いことでは無い。ただ、私にとっては、そうして持って戻った肴《さかな》を、煮ても、焼いても、決して、うまかった、ためし
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