大阪を歩く
直木三十五
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)粋《シック》よ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六十年|乃至《ないし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]
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大大阪小唄
[#地より1字上げ]直木三十五作歌
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一、大君の
船着けましき、難波碕
「ダム」は粋《シック》よ、伊達姿、
君に似たかよ、冷たさは、
黄昏時の水の色、
大阪よいとこ、水の都市
二、高き屋に
登りて、見れば、煙立つ、
都市の心臓《ハート》か、熔鉱炉
燃ゆる焔は、吾が想い
君の手匙《てさじ》で、御意のまま
大阪よいとこ、富の都市
三、近松の
昔話か、色姿
酒場《バー》の手管は、ネオンサイン
青と赤との、媚態《コケティッシュ》
断髪のエロも、うれしかろ
大阪よいとこ、色の都市
四、太閤の
浪華の夢は、夢なれど、
タキシーの渦と、人の波
大大阪の横顔《プロフィル》に
そっと、与えた、投げ接吻《キッス》
大阪よいとこ、都市の都市
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
大阪を歩く
大阪と私
私の父は、今でも、大阪に住んでいる。南区内安堂寺町二丁目という所で、誰が、何う探したって判らない位の小さい所――四畳半と、二畳との穴の中で、土蜘蛛のように眼を光らしている。
多分、六十年|乃至《ないし》、七十年位は住んでいるのであろう。私が、母親の臍《へそ》の穴から、何《ど》んな所へ生れるのだろうかしらと、覗いた時にも、その位の、小さな家に住んでいた。そして、今と同じように、苦い顔をしている(親爺の面というものは、大体、苦くって、いつでも、最近と同じ齢をしている。しばしば父の若い時の顔を想像するが、これ位困難なことは無い)。
私が、東京へ来い、と、云っても母親だけを寄越して、何うしても動かない。あんな、蚤の家のような所でも、住み慣れるといいのかもしれない(尤も、私の生れた、も一つの小さい家は、谷町六丁目交叉点の、電車線路になってしまっている。これは、大層悲しい事実だ)。
然し、もっとよく考えると、父は、家よりも、大阪がすきなのらしい。「東京はあかん」と、東京へくると、私の家の前へ出て、五分程立ってみて「あかん」と、云って帰ってしまう。何故、あかん、のか、父の観察と、私の哲学とは少し距離がありすぎるし、父の耳が遠いから、聞いた事はない。
私は、その父の伜であるが五年前までは、未だ、大阪が嫌いであった。大阪も、父もあかんと思うていた。二十年前、私が、文学へ志を立てた時、大阪も、父も、私に賛成してくれなかったからである。
尋常小学校は、桃園を、高等小学校は、育英第一を(この三年時分から、先生に反抗するのを憶えた)、中学は、市岡を(ここで、物理の大砲という綽名の先生が、私を社会主義者だと云った。その時分の社会主義者という名は、今の共産党員以上の危険さを示していたから、余程、悪童であったにちがいない)。
それから、大阪は、あかん、と東京へ行った。今年は、私は、三十五だから(去年も、確三十五だった。来年も、多分そうだろうが、この算術は、少しおかしい)十五年、東京に住んでいる訳である。
尤も、その頃の文士は、全く、あかなんだ。電話のあるのが、夏目漱石一人切りで(これも、新聞社にいたからのお蔭であろう)、里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]が、初めて、一枚四十銭の原稿料を貰って、躍り上っている頃である。私の父が「文科へ入る。阿呆かいな」と、云ったのも、尤もな事である。
だが、此頃になって、だんだん大阪がよくなって来た。父の居るせいもあるが、月に一度は必ず来る。谷崎潤一郎氏のように、地震が恐くて、料理がうまいから好きになったのでは無い。何となく、懐かしいのである(齢のせいだと人はいうが、私は、三十五じゃ無いか)。
大阪の料理は、大阪人の進出によって、東京で十分に食えるし(うまい精進料理とすっぽんだけは食えぬ。誰ぞ、東京へきてやる人はおまへんやろか)。地震は、時々あった方が、おもしろい(地震のおもしろさに就てはその内に書く事があろう)。だから、私のは谷崎氏のとはちがう。
だが、大阪へきても、歩く所がきまっている。いつも、心斎橋だったが、私が十か、十一の時分、東横堀の材木の間を、ストリート婆が出没していたが、そんな婆は今何うしているか?(私は、その頃、竹竿をもって、材木の間をつつきに歩いた。確に、悪童であったにちがいない)。私は、今の内に大阪の隅々を見ておかぬと、齢が齢である(いくつなんだか判らない三十五である)。
所で、大阪を見たり、論じたりする場合、必ず、その好敵手である東京と比較して、女が、食物がというが、凡そこれ位、常套手段は無い――と思うが、何うも、これは、アメリカ人が、木登り耐久までもして、世界一という比較を誇ろうとする如く、文化の進歩上いい現象なのかもしれない。ただ私は、大阪生れの、東京|住居《ずまい》である為に、或は、公平にも見えるし、或は偏頗《へんぱ》になれもする。都合によっては、一方へ偏したり――多分、誰よりも、偏頗になりえられる。
歩くには、もう少し寒いが、一人で、ぶらぶら(若い、美しい女性の同伴希望者は、速かに申込むべし)明日から、歩こうと思う。
梅田と木津川
私は、いつも、大阪へくる時、飛行機にしている。汽車のように退屈しないからである(退屈ということが、何んなに、金儲けにならぬことかは、大阪人が、一番よく知っているだろう。だから、旅客飛行機の乗客で、搭乗《とうじょう》回数のレコードホルダーは、大阪の電気器具屋の八木氏? それから、もう一人大阪人があって、次に、私である。尤も、大阪から一人、妓《おんな》の為に、飛行機で通ってくるという噂があるから、もし、この二人が、そうだとしたなら、それは――いよいよ尊敬してもいい。だが、退屈によく似たもので、疎懶《そらい》というものの有るのは、大阪町人には判るまい。これは、恐らく、大阪のどっかの隅にあるべき筈で、私が、大阪へ戻ってきたなら、きっとそうなるにきまっている。だが金儲けとは反対であるから大阪人はきっと、彼奴変ってまんなで片付けるにちがい無い)。
そして飛行機は木津川尻へ着くが、ここから大正橋までは退屈でもあるし、腹も立つし大阪軽蔑心も湧き出してくる。実になったあらへん所である。文化は道路に沿って起り舗装道路の上に立つというが(誰が云ったのか知らないがこういう言葉があったように思う。無かったとしたら、僕の造語だが中々うまいことをいう)、尖端的な飛行機発着場への道として――それは、道でなく、自然の土の上へ軌道を敷いただけのものである。
処で、汽車の着く、梅田の駅頭も、その非文化的な上に於て、木津川よりも賑やかという以外に何物もない。大阪梅田駅前の光景、というものは、第三流都市の下品さである。豊橋とか、岡山とか――。
粟おこし屋、安物雑貨、バナナと蜜柑としか無い果物屋、何処の三流都市よりも劣った安宿。甘酸《あまず》っぱい湯気を立てている鮨屋(此湯気は甘酸っぱくないかもしれぬが、そうしておかぬと気持が出ない)、これらの店の連続は、近代都市、経済都市の玄関ではなく、朱判を押した白衣の、団体客によってその繁栄を保持している町のステーション風景である。
もし、私の恋人が、初めて、私を大阪に訪うてきて、この下級飲食店の羅列を見て、その町に住んでいる私を軽蔑しないなら、私は却《かえっ》て、物を軽蔑することを知らない、その恋人を軽蔑してしまうにちがい無い(物を軽蔑することのできぬ人間は、又、物を尊敬することを知らない。僕の格言)。
だが、こういう小商人《こあきんど》はいい。彼等は、己の都市の美観よりも、金儲けに忙がしい。只怪しからんのは、阪神という阪急と共に梅田の東西に蟠居《ばんきょ》している大資本家である。巨額の積立金を持っていながら、電車は、プラットホームさえ有ればいい、というような態度である。阪神のあの建物は、いかなる建築の様式にもない、バラック的建築物にすぎない(尤も、重役は、こういう攻撃に答えて、いずれ梅田駅の移転が出来上ってから、曾根崎署よりも阪急よりも立派な物を造りまっせ、というだろう。そして、いつまで経っても造らないのが、重役だ。世界中で、凡そ日本の重役位、狡《ずる》くて図々しい奴はない。何を一番先に軽蔑していいかと、僕の恋人が聞いたら、重役と、僕は答えるだろう)。
僕が、市長なら、電車の市内乗入と交換条件にして、大軌ビル程度の物を建てろ、と、要求するだろう。だが、まあいい。芸術に対しての軽蔑は、僕等が彼等を軽蔑することよりも、一般的なのだから、大阪人士のみの悪弊では無い。
東、吉原両飛行家には、銀盃を下賜されるが、菊池寛の戯曲が、イギリスの一流作家より優れていても、木盃さえもらえないのが、日本だ。時々何かいい種はないかと、外国の通俗物を読むが、日本の作家の方が、ずっとうまい。その内、ノーベル賞でも、貰う人が出るだろう。そしたらははんとでも、思ってもらえばいい。世界中で、発明家と芸術家とを虐待している一等国というのは、日本だけだ。就中《なかんずく》、大阪など、その為に、何んなに、文化的発育におくれているか判らないが、文化的進歩よりも、金儲けの方が大事だろうから、せいぜいもがくがいい、そして金を儲けて、シュークリームを食いたい、と思った時、銀座のコロンバンのようなクリームが何処にも、大阪には売っていない事を知った時、成る程と、感じるがいい。文化的進歩とは、シュークリームの甘《うま》い、拙《まず》い位のものだが、金儲けもその程度のものにすぎない。
文化的ということ
文化(この言葉は、もう少し古くなっているが、大阪では、丁度適当であろう)的にみて、大阪が東京に遅れているのは、誰も否定できますまい。遅れていたって一向に差支えは無いが、とにかく、昨日云ったように、甘いシュークリームが食えぬ程度の不満さはある。
円タク、酒場が、東京へ侵入したが、これは、野蛮人がローマへ攻め入ったのと同じだと見た方がいい。少くとも「赤玉」とか「美人座」とかいう俗悪な名称は、非文化的大阪人の頭からでないと生れない。図々しくて露骨で、控え目と、礼儀とを知らない(文化とは、女郎屋を公認する代りに、洗滌器をもった女が、安ホテルにいるだけのことである。結局同じなら、そんなに、気取らんかて、ええやないか、と云えば、そうも云える。文化とは、一寸気取るだけのことなんだから――)。
つまり、東京の女は、自分の洋装が、何うすれば板につくか、十分に研究しているが、大阪の女はあても、洋服きたら、と、人真似をするのが、文化、非文化の相違で、そして、大阪の女が東京の女を見ると、妙なつくりをして、やな、阿呆らしい、と思って家へ戻ると一寸、真似をしてみるのが、批判、無批判、自覚のちがいである。
だから、大阪へきて「マイ・ミクスチュア」を喫おうと思うと、道頓堀か、梅田まで行かなければならぬ。私は、いつも、用意してくるが、丁度、田舎へ旅をするようなものである。海泡石のパイプなんて、大阪にはあるまい。つまり、ハイカラなものは、大阪より東京に多いということで、極つまらないことであるが、これを、つまらそうと思うと、私は、大阪生れの、文化的職業家の一人として一つ云いたいことがある。
それは、大阪科学研究所の設立ということである。アメリカの富豪は、必ず自らの科学研究所をもっている。だが日本の富豪の金の使い道といえば、公会堂か、学校への寄附にきまっている。この金を、科学研究に使ってほし
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