い、と、こういう話である。
 生糸が下落した。又、上るかもしれぬが、人工絹糸に圧迫されたまま、そう上らないかもしれぬ。日本の生糸は家内手工の一つで二千年来同じ方法で製産している。国立の養蚕《ようさん》研究所は、ドイツなら設立されているだろうが、日本の政府は、値が下った、補償法を適用しろで、養蚕その物の根本的研究は、全然考えていない。だが、生糸が下落して、惨憺《さんたん》たる目に逢った養蚕家は製産費の低減、製産額の増加によって防止する外にないと考えた。そして、ここ一年余りの間に、桑でなくともちさ[#「ちさ」に傍点]である程度養えること、冬でも上簇《じょうぞく》できること、煮ないでも糸がとれることを、死物狂いで、試験的に成功さした。
 だが、こんなことは、とっくに政府の手でやってやるべきことである。政府が駄目なら、大阪人の手で、やるべきことである。大戦前まで、樟脳は日本の特産だった。人工樟脳の製産は、不可能だとされていた。だが、ドイツは見事に人工的に産出して、日本樟脳は暴落してしまった。製造工業の盛んな大阪。それ以外に、国をよくする方法の無い日本に於て、個人又は、大都市の、科学研究所がないということは、何んなに、損をしているか判らない。今日の科学の発達は、研究費の有無だけである。芸術なんか何うだっていいから、私は、大阪の人々に、せめて東京の理化学研究所程度の科学研究所を設立してくれと頼みたい。幾億円の富が、そこから生れるか? 天然物の少い日本は、科学的発明以外に何をも産出するものはないではないか?
 文化的の心得があると、つまりこういうような立派な物の考え方をすることができる。大衆物の、ヤッ、エイッを書いていたって、ちゃんと、経済、科学のことまで知っている。
 日本の経済学者、実業家なんて代物は、二年位前迄、来年になると景気はよくなる。経済は周期的に上下するもので、などと云っていたが、この頃、こんな事は云わなくなった。定めて、恥かしいだろうが、私はその当時から日本のような貧弱な国は、この不景気が常態だ、と云ってた。大阪人など、何を考えているか知らぬが、此考えに基礎を置いて、科学的発達に志す外、日本及び大阪の発達はない。この卓説の、もっと具体的なことは、大阪市の顧問にでもなってから発表する。文化的とは、こういう考え方もする事だ。単に、シュークリームのみでもない。軽蔑すべからざる所以《ゆえん》だ。

  心斎橋

 私は、大阪へくると、実によく心斎橋を歩く。或は心斎橋以外は歩かない、とも云っていい。だからと云って、心斎橋は決して好きではない。第一に、決して、美人に出逢ったことが無い(こういうと少し女好きらしいが、それ程でも無い。中位であろう)。
 心斎橋も梅田と同じように、田舎町であるにすぎない。ありったけの時計を、モスリンを、ショールを、ごちゃごちゃに陳《なら》べて、電燈を眩しくつけているだけである。
 飾窓を、飾窓らしく意匠を凝らしている店は、何軒あるだろう。安堂寺町角の天賞堂(その外の貴金属商の俗悪さよ)、大丸、しかん香が既に、ごたごたしすぎていて、一見して、通行人の注意を惹くという、飾窓本来の意味を弁えていない。表に面しているから、その中へ陳《なら》べておいたら見るだろう。買いたい奴なら、覗いて選るだろう――それ以上の注意をしていない。だから、一枚千二百円の、大きい硝子《ガラス》窓など、心斎橋商人の吝《しみ》ったれには、恐らく、その価値が判るまい。飾窓の意義と、窓硝子の価値を知らないで、近代都市の小売商になるなど、田舎であればこそである。デパートに押されるのは当然で、宣伝もしなければ、陳列法の善悪も判らなくて、商売が繁昌したら、アメリカ商人は、とっくに、破産しているだろう。
 しかん香から南には一軒も無い。八幡筋を西へ曲ると、古本屋の荒木が、飾窓を、窓らしく扱っている。小大丸は、銀座の越後屋と同じ道を踏むのでは無いかしら? 品物に珍らしいのが無くなってきた。
 それで私は、大丸と、雑誌屋と、荒木と、丹平と、それだけ以外で決して買物をした事はないが、又実際、心斎橋で白狐の襟巻も、気の利いたウォッチリングも、マイ・ミキスチュアも、無いのだから仕方がない。確に、恋人をもつなら大阪の方が経済的である。三十八円の樺太《からふと》狐でも狐で、八十円のカムチャツカ狐も狐なら、二百円の白狐でも狐である。
 東京の女は、少し気が利いていると(或は、生意気だと)、ハンドバッグ一つ買うにも、鳥居屋へ行って、裂地から金具まで註文をするが、大阪の女は、こういうことを知らないだろう(大阪の男達よ喜ぶがいい。私の友人は最近鳥居屋へ恋人と同行して予算の三倍を費した。そして実はその二倍半の金しか無かったので、そっと私へ救済してくれと電話をかけてきた。東京の女はこんなにまで不経済になってきている)と、いうよりもハンドバッグの註文に応じる店が心斎橋には無い。
 こういうことを云っていると、いかにも私はハイカラらしいが、心斎橋を歩いていていつも羨ましいのは、昆布屋である。昆布の価値は、東京人には判らない。チューインガムという阿呆なものより、昆布のヨードの方がどんなにいいか――私の、少年時代、まだ、大阪の橋々の上には、夏の夜店が許されていた。
 その時分の、枇杷《びわ》葉湯、甘酒――それらは昆布と共に、もう一度、民間の飲み物になってもいい。カルピスなんかよりも、枇杷葉湯は、確に、薬効的であり、甘酒はずっと優れた栄養分を含んでいる。私は、飾窓の装飾を弁えていると同時に、甘酒と、枇杷葉湯の価値も知っている。昆布茶のうまさも知っている。つまり、古今東西の価値を認め温故知新の人間である。
 だから、相当に公平であるが、昆布屋と、飴屋と、鮓《すし》屋の外、心斎橋から、道頓堀へかけて、何も感心するものは無い(然し、大阪の女性は、こんな物に感心してはいけない。全く食べ物ばかりに感心することになって、恋人に愛想をつかされるかもしれぬから――)。
 と、いうよりも、実によく、大阪の女は食べた。私の子供時分の芝居に於て、就中、旧文楽座に於て――そして、昆布をしがんだ口臭は、決してシックなものではない。何うもキッス以前の匂いだ。キネマで、チューインガムの引っ張り合は、恋人同士によくあるが(私は、キネマを三年位見たことはないが、多分あるだろうとおもう。なかったら――やってみるがいい)、昆布は、少し粘々《ねばねば》しすぎる。とにかく、昆布は、いくらか、大阪人の健康を助けているだろう。私の母なんかも、昆布をしゃぶるには人後に落ちた事がない。少ししゃぶりすぎたので、その子の頭が少し早く禿げるのだろう。ヨードは髪毛を増すというのが、何うして、私だけは、禿げるのだろう?

  食べ物

 大阪の料理は、殆ど東京を征服した。東京料理の面影を伝えているのは、八百善位のものだろう。話に聞くと、大阪の板前は既に百人近く、東京へ行ったというからえらいものである(大抵この位で料理論などは終っていいのだが、どうも私の知識は沢山あるのでもう少し話をしたい)。
 その大阪の料理人も所謂、料理通、食通がる人々も「大阪料理は成るべく生のままの味を食わすんで――」と、自慢らしく云って「魚じま」が済んでも鯛の刺身を食っている。
「自然のままの味」ということはいい事にちがいない、然しそれだけより以外のことを研究していないということは自慢に決してならない。例えば「鶴源」は、十種類の料理で、年中大して変りがない。「鶴屋」へ行くと、きっと、鯛の頭を出す。それを、名物にするのはいいが、それ以上の変化を研究しているのか、居ないのか、一度、料理人に聞いてみたい。
 フランス料理の、オードブル(突出し、前菜)は冷たいのが百六十種、温かいのが二百種ある(宮内省司厨長秋山氏談)日本料理の突出しを、何んという料理人が百種こしらえたか? そんな物は拵《こしら》えんでもいいと考えているのか? 作り得ないのか? 作ろうとしないのか? よく、胸へ手を当てて御覧。
 東京星ヶ岡茶寮の北大路氏は、この前菜を十六種位出して、一名物を為し、日比谷の花の茶屋も、十種位は作っている。つまり、フランス料理の十分の一である。
 百種も、前菜を作ったら、日本料理で、無くなりもするか? それとも、それが、時代と共に変化する料理の道か? 日本料理には材料が無いのか、頭が無いのか?
 大阪料理が、東京へ入ったからとて、喜んでいるような根性では何うもあかんと思う。この点、北大路も、花ノ茶屋の井上も同じことで、前菜二十種だけ作っておいて、儲かったら、のん気に、陶器を焼いたり、別荘を建てたりしている。大阪から逃出して、東京で当てた「浜作」も、そろそろ競馬へ行き出した。
 何故、料理屋の主人は、料理の研究に、一生を捧げないのか? 江戸風料理の第一人者である「清さん」でも、金儲けに忙がしい。御霊の「福丸」も、親爺が、怠け出した。小金がたまると、悉《ことごと》く、これで、文句を云えば、「大阪料理は生地の料理や」で、済ましている。
 何故、それ以上にしてはいけないのか? 何うして、古今東西の料理を研究して、新味を出すに努力しないのか? 僕の頭の如き、生地のままでは、食わせようも無いからにもよるが、読みたいもの、書きたいこと、研究したいことがあって、飽くことを知らない。
 僕は、庖丁はもてぬし、今から料理人にも成れぬが、もし、成ったなら、このうまい魚と、いい野菜とを控えている大阪の料理人として、西洋、支那をも研究して、少しは珍らしい物も、作ってみせる。「伊勢屋」が「大市」派のスッポンを食わせるだけで、あれだけ繁昌するではないか? それも五十種の前菜と三十種の漬物とだけでも立派に一名物はできる。三十種のうまい漬物で、茶漬を食わせるだけでも、優に名物に成りうる。
 屈強の原料をもっていて、この心懸けが出ない以上、大阪の料理人が、千人東京へ行ったって、それは、鼠の移動と同じことで、料理の発達とは無関係だ。発達と関係の無いことを、何うして称められるか? 大阪人が、東京へ行って儲けたって、何が、日本の得になる。
 つまり、こういうやかましい理窟が、生じてくる。私はサー、理窟っぽすぎるが、大阪料理の為にこう云いたい。玄人よりも、料理がすきで、板前になっている素人料理の人に、しっかりやんなはれ、と云いたい。

  古蹟と交通

 矢野橋村が、天王寺にいた時、その二階から、塔を眺めては「天王寺は未だ、健在だなあ」と、思ったことがあった。然し、お寺は、酒場ほど面白くないから、行っても見なかった。
 今日も、薄曇りの日に、寺の前まで行ったが、境内の冷漠さを見ると「ええ寺やな」とだけ感じておいて、戻ってしまった。寺だの、大臣だのは、この程度に眺めておいたらいいものであって、深く入ると失望する。
 西門、石の鳥居の左側に、高橋父子の墓地案内の石が建っているが――大阪人は、少しこうした史蹟に冷淡すぎるようである。史蹟に熱心だったって、金は儲からないが、大阪城の天守を再築する位なら、もう少し、史蹟の保存と紹介とに、力を入れてもいいだろう。
 高橋父子、って、何者だか、殆ど知っている人はあるまい。一心寺へ参詣して、本多忠朝の大きな墓を見たって、忠朝が、何ういう人か? お巡さんに聞いたって、お巡りさんは、養成所の試験問題に無かったから、知らん、と答えるだろう。安居の天神は、真田幸村の討死した所だが、そんな碑を建てる話も聞かない。
 私は天守を立てるなら幸村最後の地へ石一つ位建ててもいいと思うが何うだろう、市長さん。尤もここには私の思い出が一つある。中学の頃だった。夕陽丘の女学校がこの丘の下へ初めて出来たが、誰かが家隆塚へ行くと一目に見えるぞと云い出した。何うも当時から女は嫌いでなかった性とみえて私も同行した。「小便したろか」と、そして一人が学校を見下ろして叫んだら、大部賛成者があった(私は確賛成しなかったと憶えている)。それから、三四遍、小便しに行くと、一日校長が「近頃本校の生徒で、夕陽丘へ行くものがある」と
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング