、講堂で云い出した。校長は大抵、紳士だから小便のことは口にしなかったが――真田幸村戦死の地であると共に、私には忘れることのできない所である。
 大阪の役、と云うと、後藤又兵衛に、真田幸村が、活躍するが、明石全登、毛利勝永の二人を、もう少し紹介してもいいだろう。明石が、十字架の旗を翻《ひるがえ》して、行方不明に終ったこと、毛利が徳川の本陣近くまで、肉迫したために、家康の旗が旗手の手から取残され、槍奉行の大久保彦左衛門がその旗を守って退却したなど、世人に余り知られぬいい話が残っている。
 一度大阪の町々の、こうした史蹟と、史話とを書いて、保存法と、紹介法とを考えては何うだろう。その位の愛市的観念と、財力があっても、金儲けの邪魔にはなるまいと思うが――実際、私等、大阪育ちの、相当そういうことを心得ている者が、歩いていてもつい見逃してしまうことが多い。
 天王寺を出てタクシーに乗った。小雨が降ってきた。「こらっ」と怒鳴るので、見ると、助手を叱る巡査だ。
 少しばかり、大阪、京都の方が叱るお巡さんが、多いらしい、ということは、叱られる市民の多いことで、これは、非文明、非公徳の反映であろう。わざわざ危い、くぐり抜けをする街の勇士が、大阪の小僧さんには随分いる。
 京都には、田中、綽名雷というお巡りさんが居て、叱るので名物だそうだ。凡そ、これ位人を馬鹿にした話はないが、署長が、余り叱るのは決して巡査の為にも、市民の為にも、名誉な事ではないと云ったという話も聞かない。
 日本の巡査は、明治初年、士族の食いっぱぐれが、悉く採用されて「くや人民ッ、ああん」と云った時分から、伝統的に、威張るようにできている。その人々が、円タクの雲助と、取組むのだから気の荒くなるのは当然だが、「馬鹿あ」「止まれっ」と、怒鳴っているのを見ると、巡査、市民共に、一度ロンドンへ見学にやってやりたい。(私は、ロンドンへ行ったことはないが、確信をもって、大阪位、怒鳴る巡査と、交通道徳を心得ない市民の多い所は無い、と断言し、大阪人の非文化性は、独り、シュークリームのみでは無い、ここに至っては、彼の生命をも、脅やかしている、と論じていい)。実際、驚くべき無節制さをもって、街路を横断している。私が、お巡りさんなら、然し、決して、怒鳴りはしない――撲《なぐ》る。

  滅んだ物、興り得ない物

 私の少年時代には、法善寺に一軒、空堀に一軒、天満天神裏に一軒、講釈場があった。だが、いつの間にか、大阪から、講談は無くなってしまった。
「玉川およし」「誰ヶ袖音吉」「木津勘助」「難波戦記」「岩見重太郎」「肥後駒下駄」「崇禅寺馬場」といったような、大阪講談種のものは、その内に、忘れ去られてしまうであろう。別に、惜しくも無いが講談というものは新形式に於て、もっと盛んになってもいい。
 花月亭九里丸は、私の小さい時分、彼の親爺と一緒にチンドンチンドン歩いていたのを憶えている。彼等のグループは、私らの家のあった所の崖下、俗称野麦と称した所にいたらしいが、機があったら、私は彼と一緒の高座へ上って「荒木又右衛門」でも弁じてみようと思っている。
 こういうことは、私は、好きらしい。だから、東京では、十年以上も、寄席へは行かぬが、大阪へくると、時々、春団治を聞きに行く。渡辺均君から紹介されて、小春団治のも聞く。愉快でもあり、上手でもある。この挿画を書いている小出楢重君は私と同じ中学であるが(少し、先輩だ)、随筆を書くと、私よりもうまい。都会人らしい、ユーモアが、快く流れていて、聡明で、謙遜で、イギリス風のエッセイとは、又別の味がある。
 大阪人は、二輪加《にわか》、万歳、喜劇などを、随分生んでいるが、滑稽の才能は、確に、江戸の洒落《しゃれ》よりも、優れているとおもう。ただそれが、完全に発達をしないのは、料理と同じで、一程度以上の研究をしないからであろう。
 曾我廼家五郎は、唯一の喜劇であるが、五郎の見識以外へ出ないから、新らしい時代とは没交渉で、十年後には――或は、いい喜劇が出たなら、忽ち圧倒されるだけの古臭さを含んでいる。
 私が、最近「アサヒグラフ」に書いた短篇など、新らしい落語でもあり、喜劇である。「大衆文学全集」などにも、落語も、書いているが、こういう方面へは、彼等は、全然注目していないらしい。私は暇さえあると彼等を聞き見るが、彼等は吾々がこうしたことにも注意していることを全く考えていない。これが漫談などが出てくる現象の一原因で、話語《わご》の上手さに於て漫談の比で無いに拘らず、落語は日に日に古臭くなって行き、漫談はもう一転換したなら遥に落語を圧倒する丈の胚芽《はいが》を含んできた。
 私は大阪のこうした人々がいい素質をもち乍《なが》ら、それをリードするいい人の無い為に、しばしば歪められてしまっているのを見ると、もう一度、大阪の非文化性の罪悪さを云わなくてはならなくなってくる。時として、文化は下らないことであるが、時として、文化的指導者のいないことは、興りうべき物をも興らしめないで終ってしまう。
 私は、大阪人の方が、東京人よりも、遥に、朗らかな、特異的な文化を生み出しうると信じているが、大阪の文化人である、池崎忠孝氏とか、岡田幡陽氏とか、新聞社関係の人々は、決して親切では無い。又、例えば、木谷蓬吟氏の義太夫研究にしても、成長して行く大阪には、何の利益も無い。
 こうした町人文化は、都市にはいつも何処にもある。五井蘭州とか、三浦道斎とか、斎部道足とか、村田春汀とか、その町の将来のことには、何の貢献もしないが、金と暇があるから、こつこつ書きためたというような――そんな文化人は、大阪には、必要ではない。
 何うも、私は歩かないで、理窟ばかり云っている。だが、十回位で終るべき、この記事を書くのに歩いて且書いたなら、それは、百回にもなるかもしれないし、一軒の飲食店を書いても、三日位かかるであろう。何うも、歩かないでもよさそうである。第一に、めきめき寒くなってきたではありませんか、皆さん。

  遊里と酒場

 いつかの「文藝春秋」に、私が酒場で十円のチップを置く、と書いてあったが(その代り、一文も置かぬときもあるとも、書いてあった)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]である。勘定が、三円|某《なにがし》だから、四五人集まって来たレデー達に、十円出して「釣は入らない」というだけで、三円が、六円になっても、矢張り十円しか出さない(だから、私にサービスしてくれるレデーは、成るべく、酒をのまさないようにする。その方が、私の健康の為にもいいし、彼女の収入の為にもいい)。
 それから、美人座へ、時々行く外(多分美人座では、私が、千早昌子を好きだと考えているであろうが、酒場では、好きでなくとも好きな一人を仮定しておくことは酒場交際法の第一課である。誰も好きでないと云い乍ら、度々行く奴は、馬鹿野郎でしか有りえない)、殆ど、私は、外の酒場へ行ったことがない。将来、行っても、私は、矢張り、十円しか出すまい。
 何うも、私は、昔から、この十円の遊興がすきであるらしい。今でも、新橋へ、年に一度位、遊びに行くが、九時から行って、妓一人で矢張り十円である。プラトン社在勤当時、九郎右衛門町の福田屋へよく行ったが、十時ごろから一時ごろまで、三代鶴を呼んで(どうも、この人に惚れていたらしいが、はっきりした記憶が無い)うどんを食べて、矢張り十円であった。
 それで、時々、この三つの内の何の十円が、一番安い、かを考えてみると、何うも、酒場よりも、お茶屋の方が、私にはいい。人々は、酒場は、沢山の女が集まってくるから、というが私の趣味だと女は惚れた一人以外には、居ない方がいい(チップの関係もある)。
 川口松太郎は、十人口説いて、一人当れば一割の配当だという主張をするし、菊池寛は、一言云って、嫌だという奴は、二度と口を利かぬから、俺の獲得率は、百パーセントだというが、人各々である。
 私は、自分の好きな人を前にして、只眺めているばかりであるから(菊池寛は直木は黙っていて女を落とそうとする。だから人の二十倍も、時と金がかかるというが、私の恋は、いつも神聖なのである)どうも、お茶屋で差向いの方がいい。
 そして、同じお茶屋の十円で、新橋と、大阪とどっちがいいかと云えば、断然大阪がいい。東京は十二時になると、不見転《みずてん》以外は帰ってしまうが、大阪は、時として夜が更けると、雑魚寝があるし、席貸へ行って夜明かしもするし、――つまり、飽きる所まで、行きつくすことができる(尤も、そうなると十円では済まん)。この点は、酒場や、東京の真似のできない所で、上方遊里の忘れられない味である。
 私は、東京へ行った大阪の酒場が、エロであるという評をきくが、ああ云った取持ちがエロなら、エロは忌嫌すべきものであるし、大阪の女性を軽蔑こそすれ、称める気にはなれない。無教養の故に、下らぬ事を喋って、慣々しくするだけの女を、喜ぶ位、又、男自身の価値を下げることも無い(私の気位の高さ、何んなもんや)。
 尤も、女と遊ぶ時には、男の価値を、少し下げぬと面白くないが、それは、差向いの時に限ったもので、そういう時には、私も、可成りだらしが無くなって、チューインガムの引っ張りっこをしないでもない(これは、仮定や)。酒場では困る。友人の、浅間《あさま》しさを見ていると、下手なダンスを、いい齢をして、背の低いダンサアと踊っているのを見ているように、憂欝になってくる。
 東京風の酒場では、この感じがやや少いが、大阪風は、かなわん。私の趣味、又は、私の文化性に合わないのであろうが、私の望むエロチックは、もう少し教養が、気取りがあってほしい。流し目一つさえ、満足に表現し得ないエロなどというものが、のさばる事は、男女お互に恥辱である。インドの「愛経」によると、脣《くちびる》のキッスのみで八種あるが、少くもウェートレスは、それ位のことを心得ていて貰いたい。Aの時には第一種のキッスで、草履《ぞうり》か靴を軽く踏むとか、Bの時には第二種で、脚を押しつけるとか、Cの時には第三種で、手を廻して首を抱くとか、――それ位の抱擁の区別は、ちゃんとしてもらいたい(この抱擁の形式は、罪のないものから深刻を極めるものに至るまで、約二十種ある。女の方には、特別に教授してもいい。一種五円位で、高うおまっしゃろか)。
 露骨なるエロよ、一九三〇年と共に、消えてくれ。

  美術館と動物園

 私は、もっと歩かなくてはならぬが、サー、理窟を云いすぎた。――そうだ。私は、天王寺へ参詣してから、理窟ばかり云っているのだ。
 産湯稲荷の、抜け穴は、何うしたかしら? 私の少年時代、その穴は、真田の抜け穴だと信じて、度々入ったものである。七八間も行くと、行きづまりになっていて、一寸、失望したが、この頃は、柵が設けてある。あの前へ「真田の抜け穴」と、札を建てるといいと思うが、――それから、もう一つ、この辺には、池の近くから、人骨が転がり出したのを憶えている。小橋の墓地といえば、私等上町の悪童には、なつかしい思い出の所である。
「しゃれこべ、出るやろか」「そら、首が出る位やさかい、掘ったら出てくる」と、私達は、棒と、竹とで、墓地――石碑一つない墓地を掘っていて、怒鳴られたことがあった。
 三光神社から、高津の宮跡へかけて、大阪冬の陣の激戦地であった。私ら、少年時代には、未だ、その大阪陣の記憶が、人首だの、抜け穴だので結び付いていて、真田山で幸村を回顧したものであるが、もう、今日のこの辺の少年は何も感じないであろうし、父兄も、町会も、感じさせるような木標さえ建てていないであろう。
 どんどろ大師は、何うしたか? 義太夫に残っているから、近くの人々は知っているであろうが、阿波の十郎兵衛の事蹟が残っていて、真田幸村終焉の地に、一本の標杭さえ無く、そして、天守閣を建てて――多分、天守閣は見せ物にして金がとれるが、幸村の碑では金儲けにならん、というのであろうか。
 名古屋の近くに、コンクリートの大仏が建った。毎日、賽銭が
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