よって、遊んで食えるそうである。子孫の為に残すなら、これはいい財産で、一寸売れないだけに、子供の食いはぐれが無い。大阪の中位の、金持共は、郊外へ、大仏だの、観音だのをいろいろ建てて、賽銭でくらすがいい。天守閣などもこの意味で、一番経済的であって、一番下らない金の使い道である。もう少し、明瞭《はっきり》としていたなら、当然大阪の史蹟の整理と保存とを初めなくてはならない。
少し、論が、前へ戻ったがこれは私が、同じ道を戻って行くからであろう。天王寺から一心寺の方へ(何という甘味のない名だろう、一心寺)、それから、公園の方へ。ここには、市民から馬鹿にされている美術館が建っている。何の市長の時に誰が賛成して建てたのか知らぬが、この位市民と没交渉の美術館も無い。一番いい方法は水を充たして水族館にすることだが――文学にさえ冷淡な、大阪市民に、美術館を与え、与えっ放しで教育もしない所が、役人の役人たる所以であろう。
年度末になって予算が余ると、不用な品を買込んで、一文も残らず使ってしまうのが日本の役所である。そうしないと、来年の予算を同額だけもらえぬというのであるが、凡そ、この位、人民を踏みつけにした考え方はない(例を云えというなら、いくらでも挙げてやる)。
朝十時に出て、午食に休み、四時に退出して十五年勤めると恩給である。東京市の一課長は三十年間勤めて、年額七千七百円の恩給をとっている。日本の重役とか、官吏とかは、皆こういう人間である。美術館など、本当に市と、市民のことを考えるなら、そんな金の使途は、いくらもある筈である。東京には、こんなのが威張っているから癪であるが、大阪は、いくらか、その色が薄いので、だんだんすきになってきた。
都市の面目を考えるなら、美術館を建てる金で、梅田駅前を、清潔にするがいいし、市民に美術教育を与えるつもりなら、矢野君の美術学校へ援助でもするがいい。何か、事があったら、一々、私の所へ相談にきてもらえまいか?
それから、私は、山を下って、動物園へ出るのである。動物園の園長、燈台守、測候所の人々などという位、真面目で、熱心な人はない。林氏にしても、上野の黒川氏にしても、本当に、仕事への情熱と、愛とをもっている。猩々《しょうじょう》が死にかけたら、きっと、園長は徹夜するだろう。そして猩々を抱くだろう。美術館の予算なんてものは、動物園へ皆やるがいい。そして、公園中を動物園にして、羊と、兎と、小鳥とを開放して、子供と遊ばせるがいい。私が子供であった時には、遊ぶ所が無くて小橋で貝を掘ったり、横掘のストリート婆を竹でつつき出したりした。だから、こういう碌《ろく》で無しになったのだ。
雨
私は、とうとう大阪を歩かなかった。これは、題名にも反《そむ》くし、私自身の意志にも反く訳であるが、歩こうとする今日九日の日が、雨になった。そして、翌日には、私は、東京へ戻らなくてはならぬ用がある。十一日には放送があるからだ。
何うも私は女より雨の方が少しばかり嫌いだ。愛人と温泉宿にでも居る時には、そうした雨も決して悪くないであろうが(ここで、あろうがと疑問を残しておいたのは、そうした経験が一遍も私にはないからである。あればきっと私の小説に出ているだろう)、傘という――少し風が強いと何の為にさしているのか判らないような物をさして高下駄をはいて、この寒いのに――(実際、私は、五尺五寸六七分あるから、三寸の高下駄を履くと、五尺八寸以上になる。こんな高い風景は、ビルディングの外、賞玩に価しない。大阪の女の、背の低い限りに於ては――)。
それに――私は、大阪の、何処を歩けばいいか? 私がエトランゼエなら、天王寺から、天満天神、大阪城、文楽座――と、歩くであろうが、私は、もう少し、特異な大阪を――大阪の玄人としての、大阪を知っている。例えば、清水橋筋には、小泉とかいた金行燈のかかった一軒の旧家がある。多分この家は、主人と共に、古い大阪を語るにちがいない。又、唐物町の鳥清は、鳥屋から、長崎料理になるまで、八年間考えていた。それは料理の研究ではなく、古い鳥屋が、長崎料理に化ける可否という事について、親族も、考えてくれていたからである。
それから、又、私は、堀江の「すまんだ」へ行ってみてもいいし、新町橋の四つ目屋へ、買物をしに行ってもいい(これは、いい土産になる)。或は又、京都の、肥後ずいきより、大阪のそれの方が、何んなに、文化的であるか(私が、こういう事を書いたからとて、直に、私の品性を評されては困る。エロ時代だから、大衆作家らしくこうした品物まで研究していると、一寸、向学心を広告したまでで、決して、私が、机の抽出へ入れている訳ではない。第一、私は、机をもっていないのだから)。或は又芝居裏の女郎がいかに「洋食弁当」を好くか? そして、それが、何んなに、特種なものであるか? とか――つまり、微に入り、細に亙り、大阪の文化性を論じ、忽《たちま》ち女郎の弁当に移り、千変万化、虚々実々、上段下段と斬結ぶつもりであったが――雨である。
雨であっても「洋食弁当」を、論じには行けるが、多分女は、私を離すまいから、私は、放送におくれたり、三日も、弁当のみを論じて、読者から叱られるにちがいない。それで、私は、今日、図書館へ行って、大阪の史蹟を調べようと思ったが、人口二百幾十万と誇っているこの大都市に図書館は、一つしかない。私がしばしば通っていた時分から、いつも満員であったが、大阪の富豪が、南の方へ、建てたという話をきかないから、未だ、中之島だけであろう。二百何十万の、空虚な頭が集合しているだけで、大阪よ、ロシアの、大ダンピングさ。大阪人等は、想像できるか? 所謂、資本主義の第二期的現象としての、生《しょう》一体、御前は、何を考える事ができる?
私は、大衆作家であるが、金貨本位の経済組織の危機を知っている。五ヶ年計画完成後に於ける生産と、消費との大ギャップ問題を、この非文化的頭脳で、判断できるか?
大阪町人の大多数は、せいぜいここ、二三年の経済界の事しか判っていない。経済策とか、ダグラスの経済論とか、ロシアの新経済論とか――そうした、直に、金儲けにならぬ論に対しては、何の興味も、もっていないが、これが、大阪町人をして、中富豪たらしめたと同時に三井、三菱になり得ない原因である。
経済も、思想も、激変して行くであろう。赤テロは、何んだんねと云っている間に、ロシアは、既に、材木と、小麦のダンピングによって、世界市場を、攪乱させ始めた。こんな事は、畑ちがいの僕にさえ、常識として判っているが、大阪町人の幾人が、この事実に対して何《なに》を何《ど》う考えているか?
私は大阪を歩き、大阪の人と逢ってもう少し大阪の為に語りたいが――多分、私は、大阪に、また失望するものと思っている。私如き一介の小説家にして、猶最新の経済理論を心得ているに拘らず大阪町人は己の領分の経済思想をさえもっていないのが多いのである。憐れむべき、大阪、及び大阪人よ、私はまだ故郷へ戻りたくない。もう、二年――そうだ、二年位で、判るだろう。
私は、これで一度、東京へ戻ろう。そうして、もう一度又、機があったなら、歩きにくる事にしよう。
続大阪を歩く
歩く準備
「大阪を歩く」前篇は、いい評判であったらしい。
(本紙の社長、前田氏は、よかったよ、と、云っていたが、らしい[#「らしい」に傍点]と疑問にしておくのは、文筆業者の、奥床しさ、というものである)
だが、前篇がよかったからとて必ずしも後篇もいいとは云えない。大抵のいい物でも、続々何々になると、きっと面白くなくなってくるのが、常である。
然し、私は前篇に於て「歩く」つもりをしていながら、歩かなかった。つまり、卓文を書いている内に、約束の十回が終ってしまったのである(前田氏は、十回で、大阪中を歩かせるつもりだったが、そうは行かない。こう見えても、通り一遍の大衆作家で無く、いろんな事を心得ているのだから――と、これは、文筆業者としての、広告である)。
だが、今度は、いよいよ歩かなくてはならぬ。この寒い、お正月に――実の所、私は、マントも、帽子も、持っていない。マントは震災前、菊池寛からもらったが、質に入れて、流してしまった(正しく云えば、流れてしまったのだ。私は、流すつもりではなかったのだが)――それから、帽子は、地震の時に、三つ重ねて冠っていた記憶があるから、確に、三つは持っていたのであるが、いつの間にか、なくなった。それ以来、マントは高くて買えぬし、帽子は――三つも冠っていても、なくなるのだから、一つ位きていても、すぐなくなるだろうと、未だに買わない。
私の経験から云うと、マントというものは着なければ、着ないでもすむものである。日本の冬位なら、私は、シャツさえ着ないで、いつも、済ましてしまっている。帽子に至っては市岡中学時代から、大して好まない。私の顔と帽子とは、余りいい調和だと思えないという事もあるし、私の頭がだんだん薄くなってきたから、この上、帽子をきたなら、あかんと思うからでもある。
それで、歩くには、少し、寒いにちがいない。私は、恋愛のためには、可成り歩いた事もあるし、今でも、散歩の為なら暖かい日に二三町位は、歩きもするが(だからと云って、私を軽蔑してはいけない。歩くと、決心すれば、一昨年の夏、私は、上越国境の三国峠を越えて、越後湯沢へ下駄履きのまま、出る事のできる男である)。歩いて、原稿をかくのは、これが初めてである。そして、同じ歩くにしても、こうなると、女に見とれたり(私は、このいい癖を、十分にもっている。女から、見とれられた事は、無いようである)、小説の筋を考えたりする事はできない。ノートを懐に、印象をかいたり、感想を止めたり(私のノートは、始めて、ノートらしくなるであろう。私の、紙入の中には、二三年前から、小さいノートが入っているが、芸者の名だの、ウェイトレスの署名だの、碌なことが書いてない)、それから、宿に戻ると、私は、今度、約、三十冊の参考書を持ってきている。それでそれによって、いかに、私が、博学であるか――と、いうように、いろいろの知識を、書くのである。
例えば、私は、淀屋橋に於て、勿論、淀屋辰五郎を書くであろうが、それからつづく、八幡の仇討は、恐らく、誰も知るまいし、金の鶏の伝説と、長者伝説、それから、大阪町人の献金と、幕府の対町人政策、もし、私が、紡績会社を訪問したなら、一九一四年の総|錘数《すいすう》が、一億二千五百万個であり、その消費数が、二千八百万俵であったに拘らず、一九二八年には、錘数に於て二割六分を増加し、消費数に於て一割の減退を示しているから最早、紡績業は、飽和点に達して、衰減状態であるというような事を、論じるかもしれない。
私は、現在、又現在まで大衆文学以外の物を書いた事が無いから、私の郷土の大阪の、私の知人も、私を単なる文人と考えているようだが、私は科学、軍事、経済、社会などに対して相当の抱負と知識とをもっているものである。私は他日それを小説の形式によって公表するであろうが、それに先立って、私の郷土、大阪に於て、私の郷土人、大阪人の為に、その全部を披瀝して何かを、大阪及び大阪人に与えたいと、考えている。
私は、女と、食物を、論じると同時に、対支貿易と、到来すべき世界的ダンピングも論じるであろうし、小春治兵衛を説くと共に、島徳七氏について云うかもしれない。歩くと云っても、ただの歩き方とは歩き方がちがう、頭で歩くんだ。少し、禿げてはいるがね。
大阪人
私は、大阪を出てから、二十年になる。二十年、東京に住んでいた。丁度、生れた所に半分、他郷に半分、という訳である。
氏より育ち、とか、孟母三遷の教えとか、人間は、環境に支配されるとか、朱に交わればとか、教育は第二の天性とか――いろいろの言葉があるが、私は、一体、大阪人なのか、東京人なのか?
大阪で生れたから、生れた時から、掌を握っていたとか、二つの時に「こんちは、儲かりまっか」と、云ったとか――いつ
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