へ「真田の抜け穴」と、札を建てるといいと思うが、――それから、もう一つ、この辺には、池の近くから、人骨が転がり出したのを憶えている。小橋の墓地といえば、私等上町の悪童には、なつかしい思い出の所である。
「しゃれこべ、出るやろか」「そら、首が出る位やさかい、掘ったら出てくる」と、私達は、棒と、竹とで、墓地――石碑一つない墓地を掘っていて、怒鳴られたことがあった。
三光神社から、高津の宮跡へかけて、大阪冬の陣の激戦地であった。私ら、少年時代には、未だ、その大阪陣の記憶が、人首だの、抜け穴だので結び付いていて、真田山で幸村を回顧したものであるが、もう、今日のこの辺の少年は何も感じないであろうし、父兄も、町会も、感じさせるような木標さえ建てていないであろう。
どんどろ大師は、何うしたか? 義太夫に残っているから、近くの人々は知っているであろうが、阿波の十郎兵衛の事蹟が残っていて、真田幸村終焉の地に、一本の標杭さえ無く、そして、天守閣を建てて――多分、天守閣は見せ物にして金がとれるが、幸村の碑では金儲けにならん、というのであろうか。
名古屋の近くに、コンクリートの大仏が建った。毎日、賽銭が
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