げて、コーヒーをあの壁にぶっかけたのでございます。私は奥に居りましたし、店のものもあちらに居りましたので、出て来た時には、壁はもうあの通りで、店には誰も居りませんでした。大した損害でもございませんが、いまいましいので、表へ出てふんづかまえようといたしましたが、二人とも大へん足の早い奴等で、もう向うの角を曲ってカーステヤース通りに這入って行っていることだけわかりました」
探偵は立ち上って、帽子をかぶり、ステッキを握りしめた。彼は自分をとりまく闇の中に、どうやら一道の光明を認めた。だがその光明こそ、まったく怪しげなものだった。勘定を済ますと、彼はガラス戸を邪けんにしめて、向うの通りに飛ぶように這入って行った。
幸いなことに、彼はこうした亢奮した瞬間にも、なおかつ冷静と敏活とを彼の両眼にたたえていた。一つの店の前を過ぎたとき、何やらパット彼の頭をかすめたものがあった。彼は、踵をかえすとそれに注意した。その店は繁昌しているらしい八百屋兼果物屋で、大道に並べられた品物の上には、果物の名と売値を記した札とがたくさん立ててあった。その中で、密柑《みかん》と栗の二つの山が一番人目につきやすかったが
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