た。
「昔、支那に、文天祥という人があった。その人の詩に、正気《せいき》の歌というのがある」
 大作は、こういって、見台の上の本を披《ひら》いた。

    二十九

 女狩右源太は、詰所へ戻ってきて、押入れから、捕物の支度の入っているつづら[#「つづら」に傍点]を、引出した。
(皮肉なことをいやがる。どうも、俺より一枚上手らしい)
 そう思って、脚絆、鎖鉢巻、鎖入りの襷、呼子笛、捕縄を取出した。
(何事も、眼をつむっているから、大作を、召捕って参れって――自分達は、命が惜しいものだから――)
 足音がして、朋輩が入ってきた。
「右源太も行くのか?」
「うん」
 右源太は、脚絆を当てていた。一人は、薄色の紬の羽織を脱いで、同心らしい、霰小紋の羽織に着更えた。
「いよいよ本物の大作だから、一つ、手並を見せて頂くとしよう。道場では、負けぬが、何んしろ、一度は、大作の首を上げた御仁だからの」
 一人が、板壁に立ててある突棒をとって、しごきながらいった。
「拙者が、案内を乞う。取次が出てくる。押問答になる。それだけ――まず、命に別条の無い方へ廻りたい。百石の御加増はいらんが、命はいる。拙者は不用だが、あの妓《こ》がいると、おっしゃる。はいはい左様で御座い」
 一人は、平服のまま、そんなことをいって、人々を眺めていた。
「一人、二人で懸かれる相手か。皆、水盃だ」
 右源太は、吐出すようにいった。組下の足軽共が、玄関へ揃ったらしく、騒がしい話声が聞えてきた。
「大抵の咎人は、逃げかくれするから、こちらも忍んで行かなくてはならんが、大作へは、まるで、戦支度の気持だのう」
「念のために、刀を三本位差して行くか」
「大作が手練者《てだれもの》の上に、飛道具があろうし、門人の加勢も見ねばならず――」
「拙者は、そう心得て、胴を下着の下へつけて参った」
 一人が、自分の胸を、どんと叩いた。こつと音がした。
「拙者も」
 と、いって、一人が部屋を走って出て、稽古道具の方へ行った。右源太は、その人々の走るのを見ると同時に
「待て、わしも」
 と、叫んで、柱に、ぶっつかりながら、道具部屋の方へ追っかけて行った。

    三十

「捕物だっ。大捕物だっ」
 と、街の人々は、口々に叫んで、走ったり、走って入ったり、走って出たり――そして、役人の後方をつけて
「ならん」
 と叱られたり――一行が、大作の住居の、隣町まできた時、行く手に待っていた北町奉行の人数が挨拶にきた。そして、表と裏と、町の抜け路――要所要所に、人数が配置された。
 役人は、騒ぎ立てようとする町家の人々を、低く叱り、眼で制して、大作の道場の方へ近づいた。武者窓に縋りついていた人々は、役人の姿と、近づいてくる同心衆の十手を見ると、周章てて逃出した。二三人の同心が、人々の逃げてしまった武者窓へ近づいて、顔を出すと、一人の門人が立上ってきて
「何用か」
 と、怒鳴った。道場の中の門人達は、一斉に、窓の方を眺めていた。その正面にいる大作は、暫く窓の方をみていたが
「これまで」
 と、叫んだ。役人は
(大作は、感づいたな)
 と、思った。そして、右腕を揚《あ》げた。
「役人か」
 と、二三人の門人が叫んで、窓へよると共に、門人達は、一時に、立上った。役人は、身体を引いて
「油断すな」
 と、叫んだ。十手、突棒、袖がらみなどを持った手先、足軽が、門から雪崩れ入った。それと同時に木戸口から、門人達が出てきた。
「妨げすな」
 と、走ってきた役人が叫んで、得物を構えて、立止まった。
「妨げすな、決して――」
 真先の門人は、蒼くなって、立ちすくんでしまった。同心が
「素直に立去れば、咎めは御座らぬ」
 と、いって、道一杯になっている役人に
「開けて、開けて」
 と、手を払った。その間に、十二三人の役人は、柴折戸《しおりど》から庭の方へ廻って行った。門人達は、役人にお辞儀しながら、次々に出て行った。

    三十一

 一人が、玄関から
「頼む」
 と、いって、片足を式台へかけた。それは、武家に対する、形式的な挨拶であった。返事をしても、しないでも、次には、土足のまま、踏込むのであったが、誰も彼も
(飛道具が――)
 と、思っていた。そして、鉄砲が現れたら、音がしたら、地面へ平伏しようと、身構えていた。
「どうれ」
 答えがあった瞬間、二三人の役人が、首をちぢめて、かがもうとした。正面へ、大作が、素手で現れて
「御苦労」
 と、いった。真先の二三人は、式台から足を降ろした。同心も、与力も、暫く黙っていた。
「召捕にか?」
 役人は頷いたり、目で頷いたりしたが、大作の素手が、何をするか知れぬ不安さに、呼吸を殺していて、答えられなかった。
「神妙に致せ」
 と、役人の中央にいた与力が叫んだ。
「とくより、覚悟
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