一人の侍が、眺めてみて、首を振って
「不敵不敵」
 と、呟きながら行った。
「あん畜生、余り女郎買して、鼻が無くなったんだろう。素的素的ってのさ、不敵不敵って、いってやがらあ」
「しっ、聞えるぜ」
「ほっ、又来た」
 一人の若侍が、小者に、何かの包を持たせて、人々の中を、玄関へ入って行った。
「ほっ、弟子入りだ。しめしめ、出てきたら胴上にしちゃえ」
 珍らしい物、珍らしいことを、何よりも好んでいた江戸の人々は大作の放れ業を、大胆さを、渇仰《かつごう》して、超人のように称《とな》え出した。町内の人々は、自分の仕事をすてておいて隣りの町へ、自慢に行った。隣りの町の人々は、すぐ見に行って、その隣りの町の人々へ先に見てきたことを自慢した。そうして相馬大作の顔を見ようとする男、女――子供、老人、あらゆる人々が、往来一杯になる位に出てきた。役人がきた。人々は、動揺した。役人が戻った。
「今に大捕物があるぜ」
 と、噂した。そして、徹夜までしたが、何も無いと知ると
「役人も手がつけられねえ、八十人力だというからのう」
 とか
「邸の中に、お前、地雷火が伏せてあるんだとよう」
 とか、話をした。そして、相馬大作の再現は、江戸中へ、拡がった。

    二十六

 大作は縁側へ出、庭に向って、毛抜きで、頤髭《あごひげ》を抜いていた。
(何時捕えられるかもしれぬ――いつ、捕えられてもいい)
 邸の外では、群衆が、大作に聞える位の大きい声で、口々にその素晴らしい、英雄的行為を称《ほ》めていた。大作は、眼を険しくして、眉をひそめて
(町人共は、わしを称めている。然し、あいつらに、わしの行いは判るであろうが、わしの志は判るまい――だが、それは無理も無いことだ。町人までが、わしの志の判る世の中なら、それは堯舜《ぎょうしゅん》のような時代だ、老中、重役共でさえ、大義が何んであるかを知らない時世だ。こういう世の中において、義を述べんとする者は、死を以《もっ》てなすより外にない)
 大作は、褌《したおび》を新らしくし、下着を取替えて、いつでも、召捕られる用意をしていた。
「入門者が、参りました」
 と、新らしく召抱えた田舎出の老人が、いってきた。
「入門者?」
「はい、若い、御大身らしい方で、御座りますが」
「客間へ通しておけ」
 大作は、そういって
(奉行所からの廻し者であろう)
 と、思った。そして、頤を撫でて
(こうしておけば、十日、二十日、牢屋におっても、むさくるしい顔には成らん)
 と、考えながら、客間へ立って行った。
 客は、黒縮緬の羽織に、亀甲織の袴をつけた、若い侍であった。挨拶を済ますと
「入門を、お許し下されましょうか」
 と、いった。大作は
(奉行の手の者では無い。それにしても、物好きな――)
 と、感じると同時に
「相馬大作は何者で、何をした男か、御存じの上か?」
「心得ております」
「咎めを受けることがあるかもしれぬが、御承知か?」
「義を、道を学ぶ者として、俗吏の咎め位を恐れて、何と致しましょう」
 若者は、その当世風の着物に似ず、しっかりした口調でいった。大作は、微笑して頷いた。そして
(世間は広い。こんな若さで、こんなことをいえる侍も居る。矢張り、道は、同志のあるものだ)
 と、感じた。そして
「門人連名帳へ署名血判なされ」
 というと同時に、若者は
「御免」
 と、いって、脇差から、小柄を抜いて、左の親指へ当てた。

    二十七

 病気と称して、引籠ってしまった右源太は、生薬《きぐすり》屋から買ってきたいい加減の煎じ薬を、枕元に置いて
(さあ、困った)
 と、布団の中で、眼を閉じていた。
(どんどん門人は増えるそうだし、見に行ってきた同心、手先の奴等、口を揃えて、あれが正真正銘の大作だ、女狩の討取った大作は、贋の大作だと――それもいいが、関良輔の馬鹿野郎め、白洲で、天下に大作はただ一人だと、自分も大作と名乗った癖に――師の名を汚しましたる罪などと――余計なことをいやがって、一体、俺は、何う成るのだろう?)
 隣り長屋の人が出て行っても、裏通りを、誰かが通っても、呼出しに来たのではなかろうかと、びくっとした。
(うまくいい抜けておいただけに、俺は、余計憎まれるにちがいない。重ければ、追放、軽くて、知行半減――首のつながるだけが、目っけものだが――知行が半分になっては、あの女には第一逢え無くなる)
 女狩は、自分に、不相応な、水茶屋の看板娘が、大作を討取ったという名に惚れて、好意を見せているのを、しみじみと考えた。
(女の方は、何うにでも誤魔化せるが、お上は一寸、今度は嘗め切れない――何んて馬鹿野郎だろう。あの大作って奴は――いいや大作が、命知らずなのよりも、のめのめ捨てておくお上の気が知れぬ。いやいや、お上より津軽が、何故
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