片手と口とで、素早く、袖を絞り上げた。そして小者の歩き振りを見定めて、編笠を脱いだ。そして、笠で、襷をかくしながら、草の上を音も無く、迫って行った。
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南部の山は、黄金《こがね》山
南部の河は、黄金河
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 と、小者は、口吟みつつ、歩いていた。
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鮭の鱗は、金光り
家老の頭、銅光り
女房の肌《はだえ》は、銀光り
そのまた
やっこらせ
女房の肌を抱く時にゃあ
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(肩?――頸?)
 つつっと、小刻みに寄った右源太、足を構えて、踏止まると
「ええいっ」
 大きく、踏出す右脚と共に、十分に延した刀、十分の気合。
「ああっ」
 と、叫んで、挟箱を担いだまま、二間余り走ると、両脚を揃えて、木のように、倒れてしまった。右源太は刀を前へかくして、四方を眺めた。
(上首尾に行った)
 心臓の烈しく打つのを押えながら、心の中で
(人の来ぬよう)
 と、祈りながら、注意深く、小者の倒れている所へ近づいた。

    十六

 相馬大作は、いつもの通り、人を睨みつけるような、関良輔の眼を、じっと見つめながら
「津軽は、老中共に、袖の下をつかましているな」
「としか考えられませぬ。参覲交代の時に、届けもなく、道順を変更して、大砲の先を逃れましただけでも、咎めのあるべき筈のところ――」
「よし、津軽に対して、そういう偏頗《へんぱ》の処置を取るなら、わしは江戸へもどって、相馬大作の名乗を上げてやろう」
「先生、それは――」
「いいや」
 大作ははげしく、首を振った。蒼白い顔色であるが、頬骨は高く、額の広い、面擦れのできた大作は、こういうと、何人《なんぴと》も動かしがたい決心の様が、眼にも、額にも、脣《くちびる》にも、現れたようであった。
「わしを召捕るなら召捕るがいい。津軽に袖の下を掴まされたのは、老中の一人か二人、または三四人のかかりの者位であろうが、奉行所まで、真逆、動かされてはいまい。わしを召捕って、訊問するとなれば、南北両奉行寺社奉行立会いの上であろうが、その面前でわしのしたことを、包みなく披露してやろう。さすれば、罪は津軽のみでなく、老中へまで及んで、現時の如き、腐り果てた支配向きは、いささかなりとも直ることもあろう」
「然し――」
「奉行が老中に、圧迫されるというのであろう」
「はい」
「上下共に、法を曲げて直を直とせん世ならば、人生生きていて何の甲斐がある。上下、人民までが、奢侈《しゃし》にのみ走り、遊惰に傾き、大義大道を忘れている世に、碌々《ろくろく》、生を貪っていて、何んの五十年ぞ。その時には、奉行の前で、いささか、心中の気を吐いて、倒れるだけじゃ。丈夫の事を為す。必ずしも事の成否を問わん。ただ、心の命ずるがままに行って、倒れて後やむ。わしは、江戸へ戻るぞ。そして兵学の道場を開いて、天下に向うのだ。廃《すた》れたる世なりと雖《いえど》も、一人や、二人の義人はあろう。それでいい、一人もいなくとも、平山先生が在《おわ》そう」
「私もいささか――」
「お身も時世に逆っているが、誠心は、いつの世にか知己のあるものじゃ。明日、早朝、江戸へ立とう」
 大作は、薄暗い燭台の灯を、半顔に受けて、じっと、天井を睨んでいた。
「越中守を討取っても、改易にならんのか」
「檜山横領を、黙認する位、当然で御座りますな」
「この噂が、世上へ拡まった時、人民は、何う思うか? 私欲のために、天下の法を曲げて徳川の代も末遠くないぞ。良輔」
「はい」
「臥《ね》るがよい」
 大作は、腕組したまま、いつものように端坐して、眼を閉じた。

    十七

「然し先生」
 良輔は、声をかけたが、大作、黙ったままであった。暫くしてから、もう一度
「手前当代の津軽を討とうと存じますが」
 大作は、眼を閉じたまま
「討てるか」
「一人を討っただけで、捕われるのも残念に思いますから、先生が、お手を下されないなら、手前討とうと存じます」
「討てるか」
「短銃で、討てようと思います」
「それもいい。相馬大作が、二人現れてはおもしろかろう」
 大作は、眼を開いて微笑した。
「然し、短銃は、己を全うして、敵を討とうとする得物《えもの》じゃ。凡そ、人を討つほどの者は、敵のみ討って、己を全うしようと考えてはいかん。己も死ぬ、その代りに、敵も斃《たお》す。この覚悟をせんといかん。十死一生、これが、剣道の奥儀じゃ」
「よく心得ております」
「場所は?」
「新らしい橋のあたり」
「よかろう」
「甘酒屋にでも姿を変えまして」
「それもよい」
「十分の距離にて狙撃すれば、逃がすことはあるまいと、心得ます」
「よし、わしは、見ていよう。二人の壮士が現れたことが、何ういう風に、この遊惰な世間へ響くか――やってみるがよい」

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