が叫んで、手を延した。
「曲者だ」
 二三人が、警固の船手の方へ走出した。四五人が、刀を取って、草叢へ抛出し、羽織を脱いで袴へ手をかけた。
「ああ」
 人々の絶叫が、両岸から起った。

    九

 人々が、動揺し、絶叫した瞬間――川の中の男は、船中へ跳上っていた。駕側の供が立上った時、駕は、左へ傾いて、越中守が駕へ、しがみつきながら
「何を致す」
 と、叫んだ時であった。一人が、刀へ手をかけ、一人が組みつこうと、手を出した時、越中守の首を抱えると、力任せに、脚を船べりへかけ押しながら、己の身体の重みを利用して、越中守を抱いたまま川の中へ、半分傾いていた。
「うぬっ」
 一人は、抜討に斬ろうとしたが、男の上になって落ちて行く越中守へ、刀が当るので、はっとした時|水沫《しぶき》を、高く飛ばし、川水に大きい渦巻を起して、二人の姿は、川の中へ没していた。
 手早く羽織をとった、一人が、川の中へ飛び込んだ。二三人は、刀を抜いて、左右へ動揺している船中から、川水を、睨みつけた。又一人が、飛込んだ。つづいて、裸の一人が、両手を延して、飛込んだ。川水は、人々に掻乱されて、岸の方へまで、波紋を描いた。
 わーっという両岸のどよめき――必死に漕《こ》いでくる警固の舟――川水の中へ、浮き上る黒い頭。その度に人々は
(越中守?)
 と、凝視したが、それは、家来で――いつまで経っても、越中守は浮いて出なかった。
(殺された――相馬大作だ)
 と、人々は、思って、自分達が、手出しをしても、無駄なような気がした。街道を、堤の上を、百姓が、旅人が、走って来たが、誰も止める人が無かった。
「血だ」
「ああっ。血だ」
 四五人が、水面を指さした。反対側の人々が、一時に見にきたので、船が傾いた。
「危ない」
「血だ」
「いかん。おーい、ここに血が」
 船中の人々は、川の上下で、水に潜ったり泳いだりしている人々へ、叫んだ。人々が、泳いで集ってきた。
「見えた」
「浮いた」
 川上へ黒い影がさしてきた。越中守の、黒い着物と、袴とが、水へ写って打伏《うつぶ》せになって、浮上ってきた。
 両岸の人々は、土堤《どて》の左右へ、我勝ちに走って、川面を、川岸を、注意していた。二町も、三町も、川の上、川の下へ、人々は、槍をもち、袴を押えて、走っていた。だが、曲者の姿は、浮いて来なかった。

    十

「何うだい、凄いことをやるじゃあねえか、この狭い渡し場で、多勢の中を、一体天狗業だの」
 一人が、堤の草の中へしゃがんで、こういった。
「全く」
 一人は、女狩を、見上げて
「お武家衆、だから、相馬大作って方は、えらいというのですよ。第一、どう潜ったのか――あいつら夜になっても、ああして張るつもりだろうが、お前、川の中に、抜穴かなんか、あるのだぜ。そうで無けりゃ、第一、呼吸《いき》ができんもんな」
「大作って人は、三日位、呼吸をせんでもいいように――」
「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》つけ。飯じゃあるめえし――」
「いいや、羽黒の山伏について、修行したんだとよ。その辺の川底に、まだ、潜ってるかも知れんよ」
 女狩は、人々の話を聞きながら
(噂通りに、大変な奴だ)
 と、思った。
(この川へ、何う忍んだのか? 忍ぶのは、夜の内からでも、忍べるが、刺し殺しておいて、何うもぐったのか――判らん。大砲で、討取れなかったから、こんな、突飛な真似をしたのであろうが、成る程な、一人で、乗込んでくるだけある。わしの手におえる奴ではない。十人かかっても敵うまい――といって一体わしは――江戸へ、このまま戻りも出来んし――一体、何うしたらな)
 川面を眺めて、じっと、立っていた。
「渡しを出さんかよう」
 二三人が、叫んだ。
「この大騒ぎに、お前、出すもんか」
 女狩は
(せめて、大作の評判、足跡だけでも聞いて江戸へ戻ったなら――いいや、討取るといって出てきたのに――第一、何か、一手柄立てて戻らんと、女がもらえぬ。あいつは、別嬪《べっぴん》だから――)
 女狩は、失望を感じたが、それと同時に、辛抱をする決心をした。
(この辺に、大作は、潜んでいるにちがい無い。何か、うまい計略でも考えて――)
 女狩は、川岸の乱杭の中に、流れついた竹が、ぴくぴく動きながら、立っているのを、じっと凝視《みつ》めて
(兄も、運の悪い、えらい奴に、討たれたものだ。対手が、強いだけならとにかく、評判までいいのだから――)
 じっと、俯きながら、竹の、川水に動くのを、凝視していた。

    十一

 夜になった。女狩右源太が堤に立って、眺めていた竹筒が、左右へ動くと、人の顔が水の中から出てきた。耳と、眼だけを出して音を、影をうかがってから、首を、胸を出した。そして、身体を顫《ふる》わしながら、堤
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