「うめえ」
 と、いった時
「爺さん」
 と叫んで、一人の若い者が、軒下へ立った。そして、口早に
「えらい者が、通る、早く、見に行けよう」
「何がさ」
「何がって、そら、播州浅野の刃傷《にんじょう》があったろう」
「ううん、あった」
「その家来が、昨夜《ゆうべ》、吉良上野を討ちに行って、今引揚げてくるんだ」
「婆あ、店頼むぞ」
「何んじゃ、爺さん」
「上杉から人数が出て、お前、その辺で一戦、やろうてんだが、二度と、見られねえぜ」
 若者が、走り出した。
「婆あ、早《は》よせんか」
 と、爺が叫んで、雪の中を、走って出てしまった。
(討ったのか――)
 吉右衛門は、溜息をして、
(皆殺されてもいいし、吉良を討ってもいいし、そっちはそっち、こっちはこっちだ。士は士、下郎は下郎――)
 吉右衛門は、一息に、酒をのんだが、ちっともうまくなくなっていた。
(一寸見に行きたいが――いいや、見付けられでもしたら――)
「お早う御座ります」
 と、婆が出てきた。吉右衛門は頷いただけであった。
「爺は何しに出ましたえ」
「さあ」
 と、いった時、表の雪の中を、一人、二人――走って行く人々が、見る見る増え
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