「うめえ」
と、いった時
「爺さん」
と叫んで、一人の若い者が、軒下へ立った。そして、口早に
「えらい者が、通る、早く、見に行けよう」
「何がさ」
「何がって、そら、播州浅野の刃傷《にんじょう》があったろう」
「ううん、あった」
「その家来が、昨夜《ゆうべ》、吉良上野を討ちに行って、今引揚げてくるんだ」
「婆あ、店頼むぞ」
「何んじゃ、爺さん」
「上杉から人数が出て、お前、その辺で一戦、やろうてんだが、二度と、見られねえぜ」
若者が、走り出した。
「婆あ、早《は》よせんか」
と、爺が叫んで、雪の中を、走って出てしまった。
(討ったのか――)
吉右衛門は、溜息をして、
(皆殺されてもいいし、吉良を討ってもいいし、そっちはそっち、こっちはこっちだ。士は士、下郎は下郎――)
吉右衛門は、一息に、酒をのんだが、ちっともうまくなくなっていた。
(一寸見に行きたいが――いいや、見付けられでもしたら――)
「お早う御座ります」
と、婆が出てきた。吉右衛門は頷いただけであった。
「爺は何しに出ましたえ」
「さあ」
と、いった時、表の雪の中を、一人、二人――走って行く人々が、見る見る増えてきた。口々に何かいいつつ、眼を前方へ、じっとすえて、一生懸命に走って行った。
「何んぞえな」
と、呟いて、婆が、表へ出た、そして、右を見て
「おやおや、槍の穂が光ってるぞな。貴下《あなた》、出て見なさらんか? こりゃ、えらいことじゃぞ。貴下」
吉右衛門は、立上って、表へ出た。人はどんどん走っていた。右手を見ると、人垣が、重合っていて、その頭の上、肩の上に、引揚げて行く人々の頭、槍が動いていた。
(随分、残っている。三十人もいるかな――うまく討取ったらしいが――もう、俺には関係のないことだ)
吉右衛門は
「婆さん、もう一本」
と、いって、内へ入ってしまった。
五
神奈川まできた時、冬の陽は、薄暗くなっていた。それに雪解けの道を、戸塚までのすのは、骨であった。吉右衛門は、松屋へ泊った。
柱に、二本の燈芯《とうしん》の油皿の灯があるっきりで、湯気と、暗さとが一緒になっていた。狭い、汚い、風呂場であった。吉右衛門が入って行って
「はい、御免よ」
といったが、誰も答えないで
「えらいことを、やるもんだのう、忠義の士だよ」
と、一人が大声を出していた。
「何んしろ吉良の附人ってのが七八十人もいたが、一人も斬られずに、無事にお前さん上野を討取ってきたってのだから、何んと、凄い腕じゃ御座んせんか――ねえ、貴下」
「全く――」
「然もさ、その四十七人の中にゃあ、お前さん何んとかって、下郎が入っているって話ですぜ」
吉右衛門は、はっとした。そして、小さくなって、湯槽《ゆぶね》の隅へ入った。朧気《おぼろげ》に、四人の男の影が見えていた。
「年二両しか貰わねえのに、命をすてて尽そうってんだから、こいつが、先ず、忠義の大将だね」
「大将は誰だ」
「大石って、国家老だってことだ」
「ふうん、どっしりして、大将みたいな名だのう。四十七人って、本当に、四十七人なのかい」
「吉良の邸の玄関に、ちゃんと、討入の口上と名を書いたのとが残っているんだ。江戸じゃあ、もう瓦版が出て、姓名から、石高まで判ってるそうだ。明日になりゃあ、判るだろう。それとも、遅く着く人が、持っているかも知れねえ」
「吉良《きら》れ上野、首無しの段、あわわわわ、話をして、うだっちまった。頭がふらふらすらあ」
一人が、勢いよく、湯をはねて飛出した。そして、吉右衛門に
「御免よ」
と、声をかけて
「貴下、瓦版を、お持ちじゃ無いかな」
「持っちゃいませんが、少しは、知っていますよ」
「知ってなさるか。ふうん、大石、何んて方ですえ、大将は?」
「大石内蔵之助良雄――」
「そうそう、そうだ、そうだ。大石内蔵之助良雄ってんだ」
「それから、忠義の下郎は?」
「下郎?――下郎は――寺坂」
「ふうん、寺坂裏之助良雄か。成る程、いい名だ。しっかりした下郎らしい名だ。それから――」
四人が、吉右衛門の周囲へ集ってきた。吉右衛門は、手拭で、顔ばかり拭いていた。
六
吉右衛門は、江戸へ引返してきた。宿でも湯屋でも、髪結床でも、討入の話ばかりであった。瓦版の読売屋は、次々に、新らしく聞いた材料、創り上げた話を刷出して、町中を呼んで歩いていた。
「番町の、堀内源太左衛門正春先生のところでは、門人から、六人まで、義士を出したって、今日、大酒盛だって――」
「そうだろうな。嬉しいだろうよ」
髪結床で、小者が、話をしていた。吉右衛門は、髪をすかせながら、眼を閉じて聞いていた。
「あの、寺坂吉右衛門って、仲間《ちゅうげん》は、お前、何《ど》うおもう?」
「えらいじゃねえか」
「手前たあ、ちっとば
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