ばら》く、門の閉まったのを、睨みつけていたが、俯いて、歩きかけた。そして、両袖に縫つけてあった合印の布を、力任せに剥《は》ぎとって、泥溝の中へ、叩き込んでしまった。

    三

 邸内に、幅の広い、どよめき、それから、部屋の中でらしい、鋭い懸声、喚声、板の踏鳴らされる音、障子にぶつかる音――それと一緒に、隣家の邸内にも、物音が、あちこちに起ってきた。吉右衛門は、
(見付かったら、大変だ)
 と、思った。そして、鎖鉢巻を懐から出して、泥溝へ投込み、羽織の下の方に縫つけてある合印を手早く剥がして、雪の中へ棄ててしまった。そして物音に、気を配りながら、吉良邸の側を離れた。
(今時分、うろうろしていて、見廻りにでも怪しまれたら大変だ)
 と、思って、暗い、軒下へ入って
(その内、大騒ぎとなりゃ、それにまぎれて逃出しゃいい)
 手も、足も凍えてきた。手を、懐中へ入れると、内蔵之助のくれた金包に触った。吉右衛門は、紙の上から掴んでみて、
(小粒なら相当にある)
 と、思った。そして、掌へ乗せて、重さを考えてみた。
(金にすりゃ十両ほどがとこ、重みがあるぞ)
 そう感じると同時に、左右を注意して包を開いてみた。白い銀子が光っていた。十両以上あるらしかった。
(十両くれたって有難くねえや――)
 反抗的に、そう考えてみたが、内蔵之助が何故自分にだけ、こんなに別にして多くくれたのか判らなかった。
(人間、金よりは、気持だ。俺ら、一両だっていいから、皆と同じように分けて欲しかったんだ、大高め、四十六といやがった。俺だけ頭数に入ってねえんだ。人を、馬鹿にしてやがる――)
 微かに、どよめきが、聞えてきて、だんだん高くなってきた。
(やってやがらあ、吉良にだって、うんと、附人がいるんだ。斬られてしまえ、皆斬られろ――俺は、国へ戻って、後生楽に暮らすんだ。もう士は懲り懲りだ――)
 人の走ってくる、足音がした。吉右衛門は、身体を引いて、小さくなった。吉良の隣りらしく、少し離れた塀の上に、大提灯が立って、人声がしていた。ちらっと、掠《かす》めて、提灯が走った。話声が、走って行った。
(さあ、この間に――)
 と、思って、吉右衛門は、雪の中へ出ると
「大変だ、大変だ」
 と、呟きつつ、小走りに歩き出した。行く手から、横町から、時々、人が走り出してきた。誰も、吉右衛門を怪しまなかった。川の上の、広々とした空が見える所まで出ると、何んの物音も聞えないし、人の走りもなかった。
(今夜は、宵から、死ぬことばかり考えていたが――こうして、江戸を見ると、人間、こんな面白い世の中に、生きてなけりゃ損だ。俺は、ここ一二年、侍の化物に憑《つ》かれていたんだろ。下郎の癖に、仇討などと――そして、お仕舞いまで、下郎扱いにされて――大損したぞ、畜生。――それでも、醒めてよかった。馬鹿馬鹿しい。仇討をしたところで、又、俺は、下積みにされてしまうか、それとも下郎なんか入っていては恥だと、あの安兵衛など、斬りやがるかも知れない――悪い夢を見ていたものだ。人を恨もうよりも、下郎の分際で、士の仲へ入ろうとしたのがいけなかったんだ。下郎の手まで、借りたといわれちゃ、恥だからな。そうなんだろう。俺に、こんなに、小粒をくれるのは、逃げろって、謎だったのかも知れねえ――いい景色だ。これで、からっと晴れりゃ、いいお正月がくるんだ。仇討よりゃ、お正月の方が、余っぽど景気がいいや)
 吉右衛門は、暫く、橋に凭れて、ぼんやりと、考え込んでいた。
(もう、そろそろ早立ちの旅人の通る時分だろう)
 吉右衛門は、橋番所から怪しまれないように、人通りのあるのを、待とうと思って、人家の軒下へ入ってしまった。

    四

「爺《とっ》つぁん、寒いの」
 吉右衛門は、煮売屋へ入った。薄暗い土間に立って、竈《かまど》の火に、顔を照らしている老人が
「これは、お寒いのに、お早くから」
「何んでもいいから、一本つけて――」
 吉右衛門は、鍋の下から、運び出してきた火に手をかざしてから、濡れた草鞋を、脱いで、店の間へ上った。
「奴さん、お一人かえ」
「うむ――葛西まで、お使の、戻りだ」
「この雪にのう」
 吉右衛門は、鰊と、味噌汁と、酒とを前にして
(うまい――ああうまい。久し振りで、しみじみと、打解けて味わえる。酒を飲んでいても仇討。飯を食っていても仇討――一体、仇討をして、何んに成るんだ。士ならとにかく、こんな下郎が?――人の真似をした、猿の物真似だ、と、そういわれたって仕方がない。実際、物の役にも、何んにも立たないんだから――附人に斬られてしまうか、吉良の小者と、囓《かじ》りっこをして、鼻の頭でも、食いちぎられるか?――下郎は、下郎らしく――)
 快く、胃へ通って、血の中へめぐっている酒を、微笑して、首を傾けて

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