寺坂吉右衛門の逃亡
直木三十五
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)討入《うちいり》だ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]と
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一
「肌身付けの金を分ける」
と、内蔵之助が云った。大高源吾が、風呂敷包の中から、紙に包んだ物を出して、自分の左右へ
「順に」
と、いって渡した。人々は、手から手へ、金を取次いだ。源吾が
「四十四、四十五、四十六っ」
と、いって、その最後の一つも自分の右に置いた。内蔵之助の後方に、坐っていた寺坂吉右衛門はさっと、顔を赤くして、俯いた。と、同時に、内蔵之助が
「これで、有金、残らず始末した」
と、いった。吉右衛門は、口惜しさに、爆発しそうだった。
士分以外の、唯一人の下郎として、今まで従ってきたが――
(この間際になっても、俺を、身分ちがいにするのか?)
と、思った。悲しさよりも、憤りが、熱風のように、頭の中を吹き廻った。
(俺の心が判らないのか?――そんなら、もう仇討は、よしだ。――それとも、判っておるか? 太夫。判っているなら、何故、士分と、同じに取扱ってはくれん。今日までは、下郎でいい。俺は、下郎にちがい無いんだから――然し、今夜は、討入《うちいり》だ。討入ったなら、下郎の俺は、士分の人のように、武芸は上手でないし、一番に、やられると、覚悟しなくてはならん。そんなこと位、お利口な太夫さん、判らないことはなかろう、人間最後の時だ。せめて、金位、士分並に、分配してくれたなら、何うだ――止めだ、俺は、討入はやめだ。誰が、そんな奴に、忠義をするもんか、人を馬鹿にしてやがる)
吉右衛門が、俯いて、心の底から、怒りに顫《ふる》えていると
「では、支度に」
と、内蔵之助がいった。そして
「吉」
と、振向いて、紙包を、膝の前へ投げた。それは、小判でなく、小粒らしく、小さい紙包であった。吉右衛門は、俯いたまま、お叩頭をして
(くそっ、もう要らねえ、もう要るもんか)
と、思ったが、押頂いて、懐へ入れた。富森助右衛門が、帯に入れる鎖、呼笛、鎖鉢巻、合印の布などの一纒《ひとまと》めにしたのを、配って歩いた。そして、吉右衛門の前へくると
「吉は、要るまい」
と、いった。内蔵之助が
「吉は、わしに、ついておればいい」
と、いった。
二
月は、走る雲の中に、薄く姿を現していた。何の物音も――それは、空にも、地にも、人々の間にも、起っていなかった。もう話をすることも無かったし、吉良の邸の前であった。槍の尖を、きらきらさせて、黒い影の人々は、二手に別れた。
「父上」
主税が、こういうと、内蔵之助は、頷《うなず》いただけで、すぐ、側の者に、指で、何か指図しながら、門の方へ歩いて行った。吉右衛門は
(これが一世の別れだのに、何んて、冷淡な――)
と、思った。
(自分の遊蕩《ゆうとう》は、人の倍もする癖に、主税の嫁さえとってやらずに――厳格な家庭で――家庭と、遊里とで、丸でちがった人になるように、この人の表面と、腹の中とは、全くちがうんだ。女は好きだが――いいや、女だって、祇園の妓に暇をやるのに、紙屑をすてるようだった。奥さんを、但馬へ帰すのも、今みたいだった。肚は、冷たい人なんだ。坊ちゃんが泣くのに父の情一つ見せないんだ。俺を、下郎扱いにする位、不思議じゃない)
寺坂は雪を泥溝《どぶ》の中へ蹴落しながら、逃亡するのに、いい機を考えていた。一人が梯子を伝って、屋根へ上った。梯子には、次々に人が伝って登りかけていた。門の所に、微かな音がして、木が軋ると、門内の白い雪が、くっきりと両扉の間に現れて、すぐ、広々とした玄関先が、展開した。人々は、静かに入って行った。一人が、玄関先の雪の中へ、竹に、書類を挟んだものを突立てた。
「お前、ここにおれ」
と、内蔵之助が、寺坂にいった。そして、人々と一緒に門内へ入ると――たあーんと、長屋の戸へ、矢を射立てて、そこにいる人々を、威嚇するのが合図であった。正面の玄関の板戸が、掛矢の一撃で凄じい音の下に折れ砕けた。とん、たーあんと、矢の戸へ立つ音、庭へ走って廻る人々の足音、板戸の裂け、砕け、敷居が外れる音――一時に、そんな物音が起り、人々の働きが始まった。そして、それと同時に、表門が、軋って閉まりかけた。
(これだっ――)
と、吉右衛門は、脣を噛んだ。
(何処まで、俺を辱かしめるのだ? 何処まで、馬鹿にしやがるのか? 下郎には、人間の魂が無いと思ってやがる――誰が、お前等について行くものか。皆、殺されてしまえ。附人に、斬られてしまえ――畜生っ)
吉右衛門は、暫《し
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