いと、私の貧乏はわからない。
 久米、菊池、大佛、吉川なんぞという人々は、十年前から、一流の名声と、収入とをもっていた人であるが、私はようよう丸三年来である。
 家族は、それでも同じで、妻、妾、子二人、家二軒。だから、いつも、ぴいぴいであった。そして「南国」が終る時分から、肺病にかかったから
「おれが入院すりゃ、明日から家族は食えなくなる。小さい家でも建てて、気長に、養生でもせぬと」
 それで、七年の夏から、金沢に、四十七坪の、ほんの小さい家――書斎、次の間、茶の間、子供、女中の五間――何うだ、玄関もないし、客間も応接間もない、ほんの家族が、それぞれの部屋をもってるというだけの家を建てかけた。
 所が、よく考えてみると、この話に出てくる父が、大阪で健在である。しかし、もういつ引取らなくてはならぬかも知れぬから、父の部屋を――と考えると、それが無い。それで、別に、私の書斎を、ドライコンストラクション式で、建てることにした。
 所が、七年度の収入だから、月千二三百円である。前年まで、ようよう食えるか、食えぬかであったのだから、それだけの金が、全く一文も残らない。
 妾宅、即ち、木挽町へ二百
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