、何あんだ)
 小学時分は、心から、先生をえらい人だと思っていたから、先生の態度、教訓で、動かされたが、中学は、一つのビジネスにすぎなかった。「学校」は、師弟間の商売、ビジネスでないと信じていた私は、図書館で読む本なら、感激し、感謝したが、先生なるものからは、そうした種類の、いかなる小さい感化もなかったので、図書館はおもしろくなるばかり、学校はおもしろくなくなるばかり――とうとう先生の揚足をとって、楽しむことに、集中しだした。
「あいつ社会主義や」
 と、睨まれたのは、その時からである。しかし、多い先生の中には、私を可愛がる人もあった。今も猶、健在であるが、木村寛慈先生がその人で、この人の御蔭で、私は退学処分にならないで済んだ事件さえあった。

    十六

 理窟をよく云うし、鼻っ柱が強い、去年死んだ東惣平という弁護士。奉天にいる河合という乱暴者。台湾にいる内山。何《いず》れも柔道初段であるが、三年になった時
「三年生というのは、学校の中堅だ」
 と云い出して、中堅会というのを作った。
「一つ、中堅の力を見せとかんといかん」
 それから、四年の奴と、喧嘩しようということになって、つ
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