田信長の命によって、大和を平定した時、順慶と戦って討死した。墓が残っている。
 それから、何代か後になって、東本願寺の家老となった。下り藤の紋のついた鉄砲が、それを物語っている。それから、植村常右衛門の代になって、郡山藩の侍講になった。相当尊敬されていたと見えて、年に一度の、煙火《はなび》の催しの時に、殿様が郡山から、常右衛門が、反対側から、煙火見物の橋上へ、同時に現れて、挨拶をし、それから、打揚げにかかったのだと、よく父が語っていた。
 この常右衛門が、私の父の父で、私の父は、三男として生れ、長子常太郎は、本家を継ぎ、次子は亡くなったが、父の弟も健在である。
 丁度、それが、維新の変乱の時で、この程度の家は、傾く一方で、私の父惣八は、とうとう天保銭を三枚もったきりで、大阪へ出奔してしまった。それから、大丸屋呉服店へ奉公して、番頭になったが、何か熱病で、夢中の内に、情婦に逃げられたりして、店も面白くなくなったのであろう。大丸での智識を基として、古着屋になったのである。父は、よく今でも云うが
「大野の植村と云うたら、大和の人で、知らん人あれへんで」
 という自慢は、本当らしく、一族には、
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